廊下を進むほど、世界が閉じてゆくように思った。
 すぐそこに広々とした庭があり、霜の噛んだ岩があり、池に垂れる松や柳が見えるというのに、世
界は、閉じてゆくようだ。進む足の下から、草木が燃え、土が焼け、灰になる。もうじきの、戦。雪が
降り、積もらぬうちにまた雨になり、凍らぬ土は、ぬかるんだまま泥土に変わる。
 それを、この手が、足が、踏み破る。
 耳許で槍が鳴る。
 ひとつ、ふたつ、速さで右を突き、左で敵を破る。間違えない。手の内の槍が鳴る。振るう手足が土
を練り、火を放つ。戦場の速さ。泥土に赤く映る。

 照り映える一瞬、海原のようだと思った。



 座れ、と言う声を、頭の端で聞いた。膝を落とすのが早かったかもしれない、と思いながら、平伏す
る。挨拶の口上は、何を考えずとも口から出た。同盟締結有難う存ずる、この度の戦勝利の後には
甲斐より改めて感謝の使者遣わせる由、伊達殿におかれましても同じ武門の頭領、甲斐も一門挙げ
て武運長久お祈りお祝い申し上げまする。
 伏した姿勢のまま、薄い煙を嗅ぐ。そういえば、兄も煙草を喫むのだと、誰かに聞いた。
 何でも、先年貰った嫁御前が療治にと吸い付けるらしい。
 祝言の席で見た兄は、遠くからでも幸せそうに見えて、幸村は、あれならいい、と思った。六文銭
はもう兄の紋ではない。信幸はもう戦には出ない。政をして、裁定をして、よい奉行になるだろうと
皆が言う。それを聞くと、幸村は我が事のように面映く、またうれしかった。
 ほんとうにうれしかった。
 祝宴の終わり、武田家臣の末席から、幸村は兄夫婦の前へ歩み出た。
 兄はきれいに抜いた結び雁金、幸村はようやく仕立てた六文銭を着けていた。美しいと評判の兄嫁
の顔は、恥ずかしくて見られなかった。
「信幸様」
 わざわざ兄の名を呼ぶのは不思議な気がした。あの日別れてから、初めて会う。
「この幸村、ご本家様のおめでたき日にお祝いに参上できましたこと、心よりお慶び申し上げまする」
 兄は立派になったと思った。
 まことにおめでとうございまする、と手をついて平伏する。このまま兄の顔を見ていたら、みっとも
なく泣いてしまうと思った。兄は、父に似ている。今日、この晴れの日に、父の暮らした部屋に座る兄
は、父によく似ていた。

 真田の男は、短命で死ぬ。父の兄弟も祖父と共に若くして死んだ。
 子はいくらいてもいい。けれども、母にも意地がある。
「その子は戦用になさるんでしょうな」
 父はその約束を守った。
 幸村もまた、それを密かな誇りにした。少し難しい形をした、僅かだけれども、消えない誇り。

 兄はうれしいよりも照れたような顔をしていた。顔を上げたら目が合って、兄弟はちょっと笑った。
「おめでとうございます」
 兄に家族ができる。
 いいと思った。
「――源二郎」
 ふと、呼ばれた名に振り返る。
 そこに一瞬、あの白昼の眩しさを見たような気がした。
「源二郎」
 母は蒼白に近い顔で、幸村を見た。重さを感じるほどの視線が、周囲から祝いの声を途切れさせた。
まだ祝宴は続いていた。けれどもなぜか、その声を幸村は聞かなかった。
「その手」
 母の声は中途で消えた。
 右の手首から肘まで、外に巻くように太い傷があった。つけばよいと両脇からざくざくと肉を縫わ
れた痕が残っていて、皮は張ったものの、一生残るだろうと言われた。
 袖口から覗いた傷を見詰めたまま、母は、涙をこぼした。
 怖かったろうに。
 あとはもう、言葉にならなかった。



 首筋に歯を立てて、食い千切ってやろうかと思った。そうすれば、どんな犬畜生でも、どちらが上か
すぐにわかる。政宗は、きりりと煙管の吸い口を噛んだ。
 この犬は、政宗を見ない。

 上げとも言わないのに、幸村は無造作に顔を上げた。額の白いのが目につく。
 お暇を、と白い顔のまま幸村が言う。
 飾り気のない渋の銘仙を着ていた。伸びかけの髪と、短い爪。こうして座らせて見ると、まだ手足
の先の細い体をしていた。
 歯を立てて手を掴んで押さえつける。暴れたって構わない。腹に膝を乗せて顎に手を掛ける。
 そうすれば。
 どんな目を、するか。

「おまえ、次の戦も先陣か」

 もう煙草は灰になった。
 畳の上は晩秋の日が射して影を作り、薄い煙が冷たく溜まる。
 冬に眠る前の奥州。
 眠るなら、夢にうつつにあの火を眺めて遊びたかったのに。
 ええ、と熱のない声のまま、幸村は言った。
「それがしもそろそろ、己の城を返してもらわねばなりませぬ」
 袖口から、太い傷が覗く。
 そうして幸村は、つっと突き放すように、政宗を見た。
「奥州も、春には戦をしますか」
 はり玉のような目をしていた。
 ぱちりとまたたく。
「する」
 我知らず、すると言った。

 鳴り響くように、目の中を炎が走る。その迅さに見入った。
 暗い泥土を渡り、遠く火群が照り映える。その美しさに見入る。
 そして。

 ここで笑うか、と、思った。







泥より黄金光り、
20070708
戦場に春雷走り
暗黒泥土に黄金光る


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