柿の葉白く光る。
夜になって、雨は上がった。
畑をする者は、雨の音を聞くとよく眠れると言う。青菜の葉の洗われるのを聞き、肥が
染み、水の満ちてゆくのを聞く。ざくろの花の赤も散り、小さな丸葉の陰に青い実がなる。
晴れたというのに、虫の声がしない。
幸村は灯明も持たぬまま、寝間を出た。
空が、妙に明るい。
雲の張った空に月が出る夜がある。足元は暗いのに、頭上ばかりがぼんやりと明るい。
空が白く見える。幸村は縁側に立って、庭の木下闇を眺めた。
静かだ。
腕組みをして、柱にもたれた。
風もない。
もう梅雨は明ける。
まだ梔子花の咲く前だった。
「ねえ旦那、あの子におしろい買ってやってよ」
珍しく、お願い事があるんだけど、と忍がやってきて、幸村に若い女忍の名を告げた。
「あの、顔にきずのある子」
「――ああ」
言われて幸村も思い出した。
「犬飼いの」
「そうそう。一番上手い子」
「この前もずいぶん走ってもらった」
「でしょ」
割合小柄な、身の軽い忍だった。
馬も人も走れないような荒れた戦場を、犬を操って駆ける。炎の立つ夜闇をくぐり、埋
み火の焼ける朝を抜ける。
「旦那、しゃべったことあったっけ?」
ない、と幸村は答える。そっか、と佐助はつまさきで土を掻いた。
「明日ご城下に出るんでしょ、旦那」
「おまえも来るだろうが」
「おれ様お仕事だもん」
「おれとて遊びに行くわけではない」
「いいでしょ、ちょっとくらい」
いー、と歯を剥く。
「おまえ」
幸村が言うと、佐助は、ぴっと舌を出して消えた。
「おれ様お願いしましたからねー」
妙なものを頼まれたものだと思った。
おしろい、と幸村は目を細めて盆の上を見る。
どれがそうだと聞くと、全部そうです、と返される。
「いくつほどご入用ですか?」
つり目の男がいたずらそうな顔で笑う。漆、象嵌、組木細工の物もある。
ひとつでいい、と言うと、男は盆の上からおしろい箱をいくつか避けた。
「ご入用がお一つだけなら、小さい方がいいですよ」
「小さい方が?」
「そうそう」
通された舗の奥間は、どことなく甘い匂いがした。幸村は床の間に生けられた梔子花を
見た。白と緑のつぼみ。開かずとも匂い立つ。
「だってその方が、おまえおしろい切れちゃないかって、何遍でも会いに行けるでしょ」
ね、と男は秘密を言うように声を落とす。
その様子がおかしくて、なるほど、と幸村も笑った。
「旦那―」
佐助は夕刻頃にふわふわと庭を渡ってやってきた。
「よ、この色男―」
ぴー、と妙な調子の口笛で笑う。
「下手くそ」
「へへ」
体を流してきたのか、濡れた髪を手拭いでまとめている。
「見せて見せて」
縁側に手をついて、ぽんぽんと気軽にぞうりを脱ぎ散らかす。片手に切った庭木を持っ
ている。佐助は無造作に屈石の横の瓶に、青栗やこでまり、裏で咲いていた、とまだ若い
あじさいを放り込んだ。佐助は匂いのする花は選ばない。
もうじき梅雨だね、と言った。
「ねえねえ旦那、どんなの買ったの」
佐助は、居室にまでは上がり込んでこない。縁側から四つん這いのまま、ねえねえ、と
ねだる様子に、幸村は何とはなしに得意な気持ちになった。
入れ、と呼んでやると、忍は猫のような動きで下座に納まる。
「ほら」
白磁の入れ物を渡してやると、佐助は顔をしかめて、蓋はどこだ、と継ぎ目を探した。
「それはこうするのだ」
幸村は佐助から入れ物を受け取って、手のひらに挟むようにして左右に回す。ほら開い
た、と戻してやると、忍はそれをじっと見た。
「きれいだろう」
うん、と佐助は頷いた。
開けた中に、赤と朱で花が描いてある。上と下、色絵の花がふたつ。
夕闇の中で、畳の上はまだぼんやりと明るく、花を戴く忍の両手が白かった。
「きれい」
佐助の首から、水の匂いがする。
忍は一心に小さな花を見ている。その様子がまるで宝物を見た子供のようで、何だかこ
そばゆくって、幸村は少し膝を揺すった。
「おれも初めてにしてはいい買い物をしただろう」
「――すっごいきれい」
佐助は色の薄い目を細めた。そして、ちら、といたずらをするように主人を見上げ、
「旦那、悪い男」
と、唇を吊り上げ、きゅうっと笑った。
「何を言う」
幸村もいたずらげに声をひそめ、実は揃いで紅も買った、と手のひらを出した。
盛りには、梔子花は煙るように匂い立つ。長雨に沈む前の一時、白い花が春と夏との間
に静かに開く。星よりも白く、切なく開く。梔子花の盛り。
夕闇は明け、暮れ、また深くなり、季節は進む。もうじき、梅雨のさなかに戦があると
聞いた。幸村は畳に頬をつけて、花の香りを嗅いでいる。息苦しいとすら思う。けれども、
肺の奥まで、僅かに甘い。障子の陰でうつうつとしかけたところに、気配が差した。
「旦那、旦那」
おのれの忍の声に、幸村は、うー、と唸った。夕飯も済んだこんな時間に、珍しい。
ころりと畳を転がり、障子を開ける。
「――何だ」
隙間から逆さに顔を覗かせると、佐助は暗がりの中で、あからさまに顔をしかめた。
「何やってんの」
忍のこんな顔を、久々に見たな、と幸村は思う。
「おまえが呼ぶからわざわざ障子を開けてやったのだ」
「それちゃんとした姿勢で言ってたら旦那、かっこよかったのにね」
「なんだ、おまえはいやみを言いにきたのか」
ちがいますー、と忍は舌を出す。
「じゃあ、何だ」
「ちょっとあんた、自分がかわいがってやってる忍にひどくない、それ」
「言っておくが、一昨日水あめを食べたのはおれだ」
「芋も勝手に焼いて食べたでしょ」
「かぼちゃも食った」
「かぼちゃまで!」
忍は額を押さえ、おれが食おうと思ってたのに、と唸った。
「道理でな。わかりにくいところに隠してあると思った」
「探すなよ、台所を」
「梅酒はおれは手をつけていないぞ」
佐助は逆さになったままの主人の上で、ちっ、と舌打ちをした。
「それはおれらが飲みました」
「やはりな。塩をつまみにあんな甘い酒を飲むのはおまえたちくらいだ」
「もう、ごちゃごちゃうるさいなあ」
佐助は案外髪が長い。
庭木の上に、逆さに月が昇る。白々と月光が射し、忍の肌に陰影をつける。
「それで、何だ」
幸村は目を細める。
雨が降れば、梔子花は錆びる。
それまで充ちる、秘め事の白。
ねえ、という忍の声に、幸村は畳に肘を突いて起き上がる。
「旦那、今晩少しお暇?」
忙しいわけがあるか、と答えると、忍は、
「もうじき戦だもんね」
とひっそり笑った。
荒ぶように雨になった。
打ちつけるように降り、具足に弾ける。血も泥も流れ落ちる。一面の戦場で、誰もが妙
に白い顔をしていた。先を塞ぐように、雨が降る。食い付くように肌を噛み、浅い傷をこ
じ開ける。
まだ誰も討たぬか、と幸村は顔を上げる。空も白く見えた。
革の具足が水を吸って緩む。
濡れた髪が顔に掛かる。うっとうしいと思えば、いつの間にか括り紐が落ちていた。い
っそ切ってやろうかと、乱暴な気持ちで槍先を払う。まぶたを押さえつけるように、雨粒
が落ちる。幸村は鋭く呼気を吐いた。
まだ誰も大将を討たない。
雨は白く煙る。
土も泥もない。血も炎もない。天も地も白く煙る。
今日の首級はうつくしいかもしれぬ。幸村は顔を流れる雨を飲んだ。暑くもなく、寒く
もなく、戦場は広大で何もなく、静かだった。耳にまで雨が流れ込んでいるのではないか
と、幸村は思う。静かに過ぎる。まつげからしずくが垂れる。
今、思えば、油断をした。
塞がれたように白い。
その足下を、背後から弾のように赤が走る。犬。
幸村は、犬の駆けた先に、黒い影を見た。爆弾兵、と頭の端で認識した。
「――幸村様!」
飛びついてきた忍が、幸村を庇った。
火柱が雨を焼く。
覆い被さるようにして、小さな体が幸村にしがみつく。首筋に爪が食い込んだ。頬に触
れる、忍の体が、熱い。狂ったように、花の香りが奔る。
「――おいま」
雨が叩きつける。
この忍を知っている。あの日、おしろいをつけて、紅をさして、幸村の前で、少し笑っ
た。佐助に引っ張られるようにしてやってきて、幸村を見て大きな目を見開いた。確か頬
に横傷があったのだ、と覗き込むと、佐助がかぼうように、ばか、と言った。佐助もそん
なに大きな男ではないのに、並ぶと頭一つも小さかった。けれども、おしろいをつけた肌
は白く、紅をさした唇は赤かった。
旦那の見た立ててくれたのつけてきたの。
ほら、と佐助の骨張った手が、無造作にその背を押す。何となく、幸村は慌てた。あん
まり無造作に過ぎる。もっと違う扱い方があるのではないかと、慌てた。
あの日、梔子花は盛りだった。
縁側に胡坐をかいたまま、幸村はおいまを見上げた。
月光の庭にしのぶ香りが充ちる。
白と緑のつぼみ。開かずとも匂い立つ。
「おいま!」
幸村を濡らす血を、雨が流し去る。
おいま、ともう一度呼んだ名を、遠吠えが裂いた。
戦の後、何もかも流れてしまった体に、ぽつんと赤が残った。
心臓の位置に、ひっそりと咲いている。
紅だ、と思った。
そう思ったら、どうしようもなく泣けてきた。
あの、紅だ。
深手なのはわかった。この傷を塞いで、生かしてやることはできぬ。
それは幸村にもわかっていた。
ふっ、ふっ、と浅い息をする度に、辺りにこぼれるように忍の血の匂いがする。
戦忍の血は腐らない。傷が膿んで狂い死にすることはない。ただそれだけだ。死なぬわ
けでも、傷を塞ぐわけでもない。
匂いが気になりますか、と大柄の忍が、小さな体の脇に屈んで、幸村を見た。
「……いや」
まだ雨は止まない。
「佐助」
ふっと後ろに立った気配は、ひんやりと濡れていて、幸村は振り返らなかった。どうす
る、と幸村越しに忍が問う。
「毒か、薬か」
彼は幸村には問わなかった。
「あ――…」
ぼんやりした呼吸の気配があって、幸村は顔を雨の伝うのを感じる。雨を吸った具足は
重く、緩んでいる。毒か、薬か。
雨は降る。血は流れる。倒れた忍は短く浅く、命を失ってゆく。
細い雨の中、花の匂いがした。
開かずとも匂い立つ、紅の。
それをやったのは、おれだ。
「幾日保つ」
幸村の声に、大柄の忍はうっそりと眉を動かした。四日、と言う。
「それ以上は心臓が保っても、他が」
「四日か」
雨はまだ細く降っている。糸のようにやわらかく触れる。
わかった、と幸村は呟く。雨の中、気配もなくいくつもの影が立っている。自分の忍さ
え、その中の一つになってしまったように、ぼんやりと立っている。
「上田まで保たせろ」
男はまた、うっそりと眉を動かした。この忍はあまり口を利かない。
「――旦那」
聞き慣れた声は、自分の忍のものだった。
「旦那、おいま、連れて帰るの」
上田まで、と、ほんの微かに気配が揺れる。
男はゆっくり片目ずつ瞬きをして、幸村を見た。その目を見返し、幸村はおいまの白い
頬にうっすらと浮き出た傷の色を見た。
「おいまは」
紅の残っているのに気付いたのは、雨が止んだ後だった。
結局、おいまは七日生きた。
「たぶん、今日」
今朝方、瓶に楓を投げ入れながら、佐助が告げた。
「旦那は来ないでね」
そう言って消えた。
楓は青く、細かった。
柿の葉白く光る。
夜になって、雨は上がった。
晴れたというのに、虫の声がしない。
もう花はないと言うのに、あの香りを思い出す。
闇夜に小さな火がともる。
木下闇をくぐり、幸村の忍がふわふわと庭を抜ける。幸村はそれを黙って見ている。
雲が割れ、月が忍と自分とを白く照らす。
雨は上がった。虫も鳴かず、辺りは明るい。濡れた緑に月が映って、鏡のようだ。
何か言おうと佐助が顔を上げる。
けれども何も言えずに、赤くなった目から、涙がこぼれた。
月光破る、
20070717
古傷、めじりに紅の色