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 妄念も死ぬ。
 この手が振るう、それが断つ。
 遺骸の唇を開けて出てゆく、小さな蜂を、佐助は見逃した。
 そこまで殺せとは言われていない。
 ならばもういいか、と、もういいかと、思った。
 格子の隙から萩の花が赤く忍び込み、ちらちらと光る。
 一面広がったきれいなままの髪を踏み、忍は逃げる。

 原を越えて沢端を抜けて山へ飛ぶ。その瞬間、誤った、と思った。
 玉切りの音がする。
 一体何が死んでいる。見上げた瞬間、葉が散った。
 赤い葉だ。かえで。ふらふらと裏を返し表を返し魔物のように落ちてくる。浅い色のつ
た。縦に錐のように回りながら目の前に散る。
 鼻を突くように甘い匂いがして、ああ、さくらだ、と思った。これはあの木の腐る匂い。
 赤い、赤い。舞う葉の明るさ。
 誰が呪ったのだ。
 重く垂れる頭で、森を見た。耳許を蜂が飛ぶ。無数の蜂が羽音を立てて森を飛ぶ。
 重い、と山土に膝をつく。こんなに明るいのに、重たくって、とても立てない。目を閉
じることもできずに、埋もるように葉に沈む。
 一体何が死んでいる。
 せめて、と見極めようとして、首をもたげた。
 その目を、塞がれる。
「やめな」
 耳許で虻蜂の羽が鳴る。
「目が潰れたら、あんた死んじゃうだろ」
 裏から目を塞がれる。
 おや、この男は、と思った。
 さっき――殺したじゃないか。
 遠く玉切りの音がして、そのまま佐助は息を止めた。

 打たれたような痛みで目を覚まし、佐助は眼前に雪を見る。赤青に散った山の葉に、雪
が積もる。解けたようにゆるい雪。それがなめるように降り続く。
 遠く、漆の葉を見た。
 身を掻かれた漆は、血よりも赤く色付いて燃え上がる。それは夢より地獄よりまだ赤い。
 閉じ始めた山の中で、その色だけが熱かった。
 狂ったように、走り出す。
 何の音もしない。ただ、自分の肺が荒れて軋んでいるのはわかった。
 舌の根が苦い。

 駆けて駆けて主の許へ駆け戻る。
 それでようやく、耳が聴こえぬことに気がついた。
 ああ、と耳を塞いで瞬きするのを、主が覆い被さって、構わぬと叫んだ。その声は、骨
を伝って忍の息を震わせた。
 目の端を蜂が飛ぶ。
 眠れとまぶたを塞がれて、忍はそのまま首を倒した。

 それから二年、幸村の忍は、妖魅の如き烈しさで働いた。
 如何に烈しかろうとも、やはりこれは武人ではなく、その習いか首級を集めることはし
なかった。どれほど取った、と目を覗き込むほど近くで聞いてやれば、忍は、喉を鳴らし
て、かすかに笑う。
 昔はよく話す男だった。ずいぶん口数が減ったな、と思えば、やはりさみしく、傷の浮
く肌に触れながら、このまま牙を立てて爪で以って責めてやろうかとすら思った。
 泣き叫ぶのでいいから、この口の言う声が聞きたい。

 幸村の忍が血を流さなくなっているのに、誰も気付かなかった。
 萩の花の咲く三年目、忍は夜毎静かに香気を放つ泥を吐いた。
 そばに付かれるのをいやがり、見られるのをいやがって暴れるのを、無理に押さえつけ
る。その時に偶然、幸村の爪が佐助の肌を掻いた。思うよりも深かったらしいその傷は、
ぱくりと開いて、白い肉を見せた。
 そうして傷口からは、透明な水が流れた。
「あーあ」
 聴こえなくなったはずの忍は、それだけはっきりと言うと、みつかっちゃったなあ、と
幸村の下で笑い、その指に舌を這わせた。
 その年の山は、不吉なほど美しかった。

 行方が知れなくなった忍は、山向こうの湖で見つかった。
 そう深いでもない水面は、波一つなく澄んでいた。
 錦のように紅葉を纏い、幸村の忍は腐りもせずに沈んでいた。
 悔いた。
 あの最初の萩の季節、これは山に落ちたのだ。
 身を掻かれた木は、誰より強く二年咲く。
 そうして三年目には、真っ赤に色付き命が尽きる。
 生きて戻った、と、そう思ったのに。
 水底で眠るようにしている忍を、僅かに憎んだ。




「漆沈む湖、」

20070922
漆のかきがら腐りもせずに

夜書いたので、書きながらだいぶ寝ていた。(告白)


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