暗いものばかり集まるから、隠してやろうと天が雲を呼ぶ。黒々と集う、それは厚く濃く、
隠してやろうと寄って閉じる。
「濃姫様」
不思議と、そう呼ばれても、心が動かない。
「濃姫様、濃姫様」
ぼんやりしていた。
「あ、蘭丸くん……」
「濃姫様、入ってもいいですか?」
いいわよ、と笑ったつもりの声が疲れている。
「どうしたの、蘭丸くん」
「えへへ」
暗くてよかった。この暗さは女をきれいに見せる。陰のできぬ暗さが美しい。
「濃姫様」
薄暗がりを透かすように、少年が敷居を越える。
白い足が床を踏む。指の先で爪が光る。
「なあに、何かおねだりかしら」
自分もまだ、笑えばやさしげに見えるだろう。
へへ、と髪を触って、少年が上目遣いに己を見る。少し、逃れるように顎を引いた。
「蘭丸、新しい矢がほしいんです」
「矢?」
「この前、信長様にいただいた分、もうなくなっちゃいました」
いっぱい敵を倒したから、と胸を張る。この子は、夫が拾ったのだ。戦場で足の爪を剥がし
てしまって、路傍の石くれの横で泣きべそをかいていた。
「おや」
その日も暗くて、自分には何も見えなかった。
「信長公、子供がいますよ」
馬の首に長い髪が垂れる。匂いを嗅ぐようなしぐさをして、光秀が首を巡らせた。骨と同じ
形をした指が手綱を撫でる。黒く汚れた。
「殺しましょうか」
提げた鎌の柄がぬめる。
「やめなさい、光秀」
振り返った顔が白い。唇が歪んだ。
「上総介様」
夫の背に呼ばう。
「光秀が、子供がいると」
雲が垂れる。血泥を闇が這う。それを追うように炎が低く流れる。
戦場とは、どんなだったろう。こんなに暗いものだっただろうか。そういえば織田に来てか
ら、勝鬨を聞いたことがない。死に際の怨嗟も、無事を喜ぶ声のひとつすら、己はもう忘れた
のか。押し潰すように、織田の戦は進む。上から下へ、雪崩れるように押し潰す。
「――ふん」
夫のいらえはそれだけだった。
振り返りもせぬ。
「帰蝶」
そう呼んだのは光秀だった。
少し震えた。
「拾いますか」
馬が矢を踏んだ。まるで氷を破ったようだと、耳が聞いた。
「拾いましょうよ」
きゅう、と音がした。風がとろとろと重い。髪がまとわりつく。煩わしい。光秀がおもしろ
そうに揺れた。男のくせに長い髪をして、ろくに結いもせぬくせに、暇な時は日に何度も洗っ
てばかりいる。これの髪が乾いているのは戦の前触れだ。
きゅう、と暗がりの向こうで音がする。それが弓弦の音だとわかるのを厭うた。
「ねえ、帰蝶」
その声の横を弓矢が飛ぶ。
目で追うのも煩わしい。
「黙りなさい、光秀」
引金に指を掛ける。漏らした息が疲れている。思う間に、もう撃った。
「出てきなさい、ぼうや。あんまり引っ込んでちゃ楽に死ねないわよ」
「わあ!」
二、三、と数えるのも面倒で弾倉を空にした。
「あんよがなくなっちゃったのかしら。立てないの? 助けにきてほしい? ぼうや」
宝石よりも弾丸の鉛が手に馴染む。
一瞬、夫の目を感じた。
見てくれたのだろうか。
追った時には、彼はいつもの背中だった。
「撃つわよ」
「もう撃ってんじゃないか!」
「弓を下ろしなさい」
飛び出してきたのは、少年だった。
「じゃあ、あんた銃こっち向けんなよ!」
「弓を下ろしなさい」
体のどこを撃とうか少し迷って、土を撃った。
「ひざまずいて」
「何すんだよ!」
「ひざまずきなさいと言ってるの」
くく、と光秀がうれしそうに笑った。
「帰蝶」
死霊かなにかのような動きで馬から下りる。
光った、とも思わなかった。この暗闇、輝くはずの刃さえ曇る。
軽い音がした。
「ほら、これでいいでしょう」
思い切り振り回した刃を返して、光秀は子供の背を踏んだ。
「ひざまずきましたよ」
ぐんにゃりと力を失った体が泥に沈む。光秀はその硬さを確かめるように肋の辺りを踏みつ
けている。血が流れぬところを見れば、胸にでも打ち込んだらしい。
「信長公」
光秀が妙にきれいな顔で夫を見る。
「連れて行きますよ」
この子、足の爪を剥がしてしまっているんです。
いつ気付いたのか、気を失っているのを引き上げながら、憐れむような顔をする。
「手当てをしてあげなくちゃねえ」
帰蝶、とこの男ばかり己の名を呼ぶ。
「――好きになさい」
声もなく喜んだ。喜んだくせに、無造作に自分の馬の上に子供を投げ上げる。
「……いっ、てえ!」
気が付いたらしい。きかん気の強い子供らしく、光る目で己を見た。
「あん、たっ……」
何を言うのだと、少し惹かれた。
「ふふ」
首筋を辿る指がその口を塞いだ。暴れるのを押さえたまま、供回りの兵卒に囁く。
「辺りの矢を拾ってあげなさい。どうもこの子が蒐めていたようですから」
口を押さえられたまま、子供がかっくりと首を落とす。光秀の前に横倒しに乗せられたまま、
下がった手が揺れる。その光景に、ふっと胸が沸いた。
短い。小さい。子供の手。
ふうっと、胸が沸いた。
「鷹の尾羽ばかりじゃありませんか。死骸から抜いたのか陣中から盗ったのか知りませんが、
よくもこんな戦場で自分の好みのものばかり見つけおおせたものだ」
いいですよ、と光秀の髪が揺れる。
「気に入りました。信長公、私、これもらってもいいですか?」
「だめよ」
夫が答える前に、ため息で制す。
「光秀、あなたはだめ」
「なぜです」
「あなたの役目はその子を馬で城へ運ぶところまでよ」
色の悪い唇が笑った。
「――おもしろくない」
ぼんやりと目の前が暗くなって、己はまた、天から隔てられたのを知る。
「上総介様」
白は光の色。赤は心の色。
それを纏って尚、夫は六欲天の最高位より下りることができない。欲天の頂上に生まれつき、
非天でも外道でもなく、ただ王として生まれたがために、彼の前は永劫に暗い。
だから彼は己を欲したのに。
「帰蝶」
名を呼ばれた。
「――はい」
答える喉が震えた。
「はい、上総介様」
己の質は炎だった。
赤く、小さくともその色が、気に入ったと夫が言った。
「来い」
それだけ言って振り返りもせぬ。
女など弱くてよい。虫けら一匹傍辺に置いてみすみす殺させるようなことはせぬと、かつて
夫は己の裸の肩越しに言った。
「信長公」
敵襲ですよ、と主の閨を覗いたまま、光秀は興味もなさそうだった。
「帰蝶はどうします、信長公。忍も城へ入っていますよ」
死んでしまいますね、と光秀は目を細めた。
「出陣の馬立ては表へ引いてありますが」
棺もいりますか。そう言った目が胸の真ん中を見た。
「――残念ですね」
「光秀」
不快げに上掛けを跳ねる。
「興が過ぎるぞ」
晒された肌に、羅紗のように陰が被る。
「去ね」
夫の眼光を受けて、光秀はゆっくり暗がりに下がった。
「おお、怖」
戸の際に足の指だけ五本、妙に小さく並んでいた。
「連れて行く」
裸の腰を撫でて、腿の蝶に手が触れた。
「来い」
うつけと呼ばれた昔のように、脱ぎ散らした着物を肩に掛けただけの姿で床を踏む。振り返
りもしなかった。後ろ髪を掻き上げる、その指だけ白かった。
「――濃姫様?」
子供の目が光る。
「矢が欲しいの?」
「はい!」
照れるしぐさで甘える。
「蘭丸、信長様のお役に立つんです!」
小さな手がひらひらと舞う。
ふっと口をついて出た。
「蘭丸くん、背が伸びたわね」
胸に満ちる。
「大きくなったわ」
胸に満ちる。
どこか、名前のないところが熱くなって、闇の中、唇が光を呼ぶ。
波旬のまごころ、
20090503
三度請願して釈尊受け給わず