息が白くなる。
 じき霜が降りると皆が言った。もう山は赤い。
「旦那」
 頬べたにすり寄って、首の後ろに口づける。伸びた赤毛が耳に触れる。くすぐったいのにも
もう慣れた。佐助はいつもひとしきりそうしてから、幸村の背中に額を押しつける。
「もういいのか」
「うん」
 毎日儀式のようにして、それでようやく満足するらしかった。
「昨日な、お館さまがな」
 そう言って幸村が話すのを、背中合わせで聞く。佐助が頷く度に背骨が当たる。
「うん、うん」
 そうしているうちに少しずつ前屈みにまるくなって、佐助は大抵眠ってしまう。
 それはまるで何かが静かに消えてゆくようで、幸村はいつも少し息を詰めた。
「あれは夜眠っておらんのだな」
 ふと、何かの拍子に信玄が言った。
 ちょうど見つけたばかりのくりの実を食べているところで、幸村は次の言葉を聞き逃した。
「夜に動く生き物か……」
 日暮れが早くなってきたな、と撫でられて、幸村は目を細めた。
「また渡りの時期じゃな、幸村」
 冬になると、群は遠くの山へ移動する。
「去年は随分遅れたが、今年はどうだ、しっかり歩けそうか」
「もちろんでござる!」
 思わず立ち上がった。
「それがし去年より倍も三倍も大きくなり申した!」
 言ってから、たしかに去年は少し小さかったでござる、と口ごもる。
「そうか、そうか」
 信玄は鷹揚に笑う。
「去年は雪が深かったからな。おぬしの悲鳴が聞こえたかと思えば、姿がないものじゃからな、
みつけるのに随分難儀したな」
「もう雪だまりには近付きませぬ……」
 きゃっ、と思った時には頭まですっぽりはまり込んでいた。
「冷たかったでござる……」
 助け出された時には歯の根も合わぬようになっていて、何重にも布にくるまれて、ようやく
人心地を取り戻した。
「幸村!」
「お館さま……」
 もうぶたれたのか撫でられたのかもわからなかった。
「この馬鹿者!」
 ただ触れる手だけ熱かった。
「しかし心配じゃな」
 信玄は意地悪く笑う。
「おぬしこの前もぬた場にはまったらしいではないか」
「なっ」
 誰から、と言おうとして、信玄の笑っているのに気付く。
「洗うのが大変であったと言うておったぞ」
「さ、佐助!」
「道理で知らぬ間に随分きれいになりおったと思ったわ」
 それ、と糖蜜の包みを投げる。
「二人で食え」
 あれがおれば安心じゃな、と大きな手のひらが笑う。
「佐助」
 真似をして首筋に触れてみる。
 少しぬくい。
 伸びた髪が目許を隠す。それを掻き上げて、幸村は薄い眉根をなぜる。冬になる前に髪を切
らねば。春になる頃には長く伸びて絡んでしまう。
「佐助」
 起きよ、と名を呼ぶ。
「ーーなあに」
 目を閉じたまま、めんどうそうに幸村の体に触れる。
「さむいよ」
 かすれた声で、佐助はまた眠り始める。


 次の日、遠くの山に雪が降った。



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春の角、
20080411

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