何か、過去が降りてきたのかと思った。
しい、と唇だけで警告の音を発して、それはいい子と笑った。
覚えがある。この匂い。久しく、触れ合わなかった匂いだ。泥を踏み、埃を被り、血の染み
たまま、手を伸ばす。そうだ。家康は思う。この匂い、忘れない。
「おめえ、真田んところの」
忍だな、とその声は、指が塞いだ。
「いい子」
寝屋の暗黒からぶら下がって、それは逆しまがたに家康に顔を見せる。
白かった。
「少うし、確かめに来ただけだから」
しい、とその音は、唇からでなく、もっと首から繋がる喉元のもっと奥、何かこれの体の暗
いところからするような気がした。しい、とまた家康をなだめて、忍の音がする。しい、と伸
ばされる忍の手は、中空から浮いて出たような気がした。
顔が白い。
「おめえ」
家康の胸の辺りに吊り下がったまま、頭蓋のまるいののくぼんだ裏に、見える。忍の目が見
える。まぶたの空いた中にあるはずの目が見える。何の変わりもないまなこ一つであるはずな
のに、暗がりから浮き上がって、それは白い肉と、黒い穴と、何か怖いもののように見えた。
「なあに」
竹千代様、と逆しまの口が開いて、昔の名を呼ぶ。
匂いがした。
人の下にひそむ匂い。
「少うし、確かめに来たの」
忍は家康のあばらの隙に落とすように、忍が囁く。
「あんたがね、本物かどうかって」
夜着の衿をたどって、青い爪が喉を渡る。
その手が、匂う。
影に潜って、闇に埋もれて、そうしてやってくる、泥の匂い。
「織田もいなくなって、豊臣も死んじゃって、徳川が天下を取ったって言うから見に来たらさ、
あんた、ずいぶん様子が変わっちゃったじゃない。だから、この子、本物かなあってさ」
べたりと重い音でふとんに手のひらが落ちた。
「ばかたれ」
手が匂う。
悔しかった。
この男は、まだあの時代のままでいる。
「わしはわしだ。この徳川家康に、本物も偽物もないわ」
ふうん、と忍が半面を寄せた。
「でも、おれさまが知ってる三河の大将はこんなのじゃなかったしなあ」
少し、笑っている。
「ぬかせ」
時が過んだのだと、きっとこれも知っている。
「わしは大きくなったのだ」
そうしてその間に武田は衰え、真田は怯えている。
「甲斐の子虎はまだ小さいままか」
悔しい。織田を討ち、豊臣を討っても、これか。
「わしが本物かどうかなど、書状でも寄越して正面から会いにくればいいのだ。謀略も取引も
何もいらん。遊びがてらでも来りゃあええ。なぜわざわざこんな暗がりに潜んで来おる」
ばかたれ、と家康は間近で匂う手に、顔を歪めた。
この匂い、よく嗅いだ。戦場を逃げ延びる徒歩の山、激戦に猛る陣幕の裏、竹千代様と己を
呼ぶ者たちが纏っていた。もうすぐ終わる、もうすぐ終わると言い合った、戦の匂い。
変わるはずだ。変えてみせる。みなが笑い合って暮らせる世の中にするのだ。誰も泥を被ら
ずともいい、誰も血など流さずにすむ世の中になる。暗がりは、光の下で消える。そのために
大阪を討った。平和を呼んだのだ。
なのに、と家康は悲しい。
「甲斐は、疑い深くなっちまったな」
この男は、まだ同じ匂いをさせている。
「だって、信じられねえもの」
忍は囁く。
「おれは真田の首はいらねえぞ」
「そりゃそうだ」
忍の爪が頬筋をたどる。
「でもあんたはさ、生きてる間中さ、うちの旦那の首根っこに縄つけときたいんでしょ」
ぴたりと家康の目で止まる。
声が重く濡れる。
「そんでいつでも難癖つけて刑場引っ張って行けるようにしたいんだ」
「……徳川はそんなことしねえ」
うそ、とまあるい目が家康を見下ろした。
「あんた、竹中半兵衛重治、そうやって殺したじゃない」
おれ見てたもの、と息が掛かる。
「どうせ放っといたってすぐ死んだのに、あんたが殺したんじゃない。刑場でまくしたてたみ
たいなことくらい、どうせみんな同じなのにさあ」
わざわざ刑場で殺したもの、と忍の目玉は、血肉でできているとは思えないほど白い。
「検地だか寺領だかがどうこうって難癖つけて竹中の旦那の首刎ねてさあ、そりゃ大猿も怒る
よねえ。それでせっかく合戦起こしたら悪者呼ばわりでさ。かわいそうに」
「それは違う」
これの目に、そう映っていることに家康は震えた。
「忍よ、それは違うぞ。半兵衛は、いや半兵衛殿は己の先の長くないのを知った上で、罪を被
って、自ら秀吉殿の暴政を諌めるためにーー」
「あんたに殺されたの?」
落ちてきた。
「ねえ」
頬に爪が入る。
「違えっ、わしらはただ見届けとしてあいつの最期に立ち会っただけだ……っ」
「よく言う」
皮が剥がれた。
「どうせそれすら利用したくせに」
黒く、匂いが立ち上る。
「どれだけ姿が変わったって、おれは覚えてる」
ねえ、と鼻先のつくほど額を寄せて、忍は生臭い息を吐く。
「甲斐は死なねえ」
荒れた生き物の匂いがする。心の荒れた生き物の匂いがする。
「猿飛……っ」
肩を、掴んだと思った。
なのに、両手は、ひとつ遅れて空を切る。
中空に顔だけ、ぽかりと浮かんでいた。
「まだ、終わってないぜ」
滴るような憎しみに、家康は甲斐の闇を嗅いだ。
伏水、
20090928
平らな下のくらがりの脈