佐助が暴れるので何かと思ったら、神鳴が怖いらしかった。
「うるさい」
蚊帳の中から天井を見上げる。
言うとぴたりと音は収まるが、一呼吸二呼吸でまたぞろそわそわと動き出す。
「うるさい」
埃が落ちる、と幸村は唸った。
「……おれさまうるさくない」
そわ、と気配がちょうど幸村の上で止まってうめいた。
「うるさいのはちょっとねずみがいるからです」
「どうせしっぽのないねずみだろう」
じっと窺うように気配が消える。
「降りてこい」
「やです」
天井裏の暗がりからは、幸村のいる部屋の様子がよく見える。細い隙間から明るいところに
目を凝らして、幸村の忍はたぶん言い訳を考えている。
「おれさましっぽないから恥ずかしい」
「ばかたれ」
ちゅう、と鳴き真似ばかり上手いのが生意気だ。
「おへそ取られちゃう」
かた、と小さな音で羽目板を外して、忍の頭が逆さに覗いた。
「旦那、おへそ取られたらすげえ痛いんだぜ。腹爆発するんだぜ。はらわたとかめっちゃ出る」
「気持ちの悪いことを言うな」
「ほんとほんと。おれさま見たことあるもん」
「それは虫だ。腹の中でおかしなものを飼っているからだ」
「虫?」
佐助は眉をひそめて、いやな顔をした。
「……その方が気持ち悪い」
「だから虫くだしというものがあるのではないか」
ええ、と佐助がうめく。
「そのくだした虫、どこから出るの」
「尻だろう」
想像したらしく、佐助は悲惨な顔をした。
「おれ……いないよね?」
寝返りを打って、幸村は天井の佐助を見上げる。
「おまえ、何を食った?」
少し意地悪をする気になって、幸村は聞いた。
「おまえ川魚が好きだったな」
「え」
逆さの顔が引き攣る。
「近々鮎など食っていないか。岩魚も危ないな。天魚はまだ早いだろうが」
忍の顔が青くなる。
「おれさま全部食った……」
ばかたれ、と幸村は笑う。
「ひとりじめするからだ。次はおれにも寄越せ。鱒がいい」
「え、ちょっとほんとにおれさま虫がいるの?」
「おまえの腹の中など知らん」
言いながら蚊帳の裾を上げる。
「神鳴が怖いなら蚊帳に入ればいい。神鳴は細かい目の間には入れぬのだ」
佐助は冷や汗をかいている。
「来い」
呼んでやると、忍は目にも止まらぬような速さで幸村の隣に滑り込んだ。
「ま、まじで」
腹を押さえている。
「心配するな。いざおまえの腹が弾け飛んだら、おれがきちんと詰め直してやる」
「ぜってえやだ」
いー、と歯を剥く。
「旦那なんかに腹ん中いじられた日にゃ、おれさまきっと大事なもんなくなってるよ。てきと
うに詰め込まれて順番とか絶対ぐちゃぐちゃだしね。詰まっちまう」
「ならおまえの使いやすいようにしてやる」
「やだやだ、お断りします」
怖い怖いと忍は蚊帳の中でまるくなっている。外は雨だ。
「よく降るねえ……」
ねこのように手足をしまったまま、佐助は顔だけ上げている。開け放った縁先からは庭が見
える。梅の実に雨が伝う。
「降らねば田が涸れる」
「まあ、そうだけど」
ふう、と息をついて、佐助は幸村の枕元に手を伸ばす。あっつい、と呟いてうちわを奪って、
申し訳のように幸村をあおいだ。
湿った刃の匂いがする。
悠長な忍は、いつの間にか手足を伸ばして眠っていた。
幸村は読んでいた軍記物を閉じて忍の寝顔を眺める。とがった鼻の先が少し汗をかいていて、
蒸すな、と幸村は己の首筋を拭う。忍が握ったままのうちわでも使うべきなのかもしれなかっ
たが、そんなことをすれば、きっとこれは目を覚ましてしまう。
雨が土を打つ音がする。それに匂うような鉄の気配を感じながら、幸村は手枕で外を見る。
今はどちらにも傷はないけれども、戦の後に近付くと、互いの体の奥から脂のような錆のよ
うな、何か傷んだような匂いがする。今は雨の匂いしかしない。それに幸村は安堵した。
佐助は幸村に背を向けて寝息を立てている。
これでも今何かの害意があれば、佐助はきっと飛び上がって切りに行くのだろう。そしてた
ぶん、切って捨てた後に首を傾げる。なんだろう、と少しきょとんとする、その表情が、幸村
にはせつない。
春の頃、誰にも言うなと言われて、幸村は別の家に呼ばれた。
「どう思う」
問われたのは、若い忍が三人だった。三人とも、冬の前に新しく戦忍に買い入れたものだと
言う。真田の家にはかなわぬが、そこもいつも忍を飼っていた。
「どうだ」
三人とも洗い立ての着物を着て、みなりはきれいにしていたけれども、一目見てわかるほど
に痩せていた。顔色も悪く、髪の色も焼けたように赤い。
「年明けから急に痩せ出してな」
困った、と三人を見る主は、買い入れた忍が心配らしい。幸村の手前、無表情を取り繕って
いる忍たちも、己の体ながら途方に暮れているらしかった。
このままでは、死ぬかもしれない。
中の一人は特に細く、足など棒のようになっていた。忍には詳しかろうと、内密と呼ばれた
幸村は、忍の縋るような気配に暗い気持ちになった。
「どこからお買い入れなさった」
主の答えたのは、南の傾きかけた武家だった。
「金はいる、引き受けてくれと言う割に、何か渡すのを渋っておってな」
たしかに、どれも並なら手放すのが惜しかっただろう。やつれた顔に隈を作りながら、目の
光は強い。唇の色の白いのが、何気ない風をしながらも苦しいのだろうと思わせた。
「前の主はよくしてくれたと言うのだ」
その言葉にうそはないのだろうと思った。
「さようでござるか」
けれども言いながら、幸村は悲しい気持ちになった。
わかった、と忍を下がらせて、差し向かいになった席で、幸村は主に別の忍を呼ばせた。昔
からその家についている男だ。領内の村で病人の面倒をみているのも知っていた。信濃の田舎
で、慣れた忍は医師の代わりにもよく役に立つ。
「虫を呑まされたのだと思う」
幸村の言葉に、強面の忍は眉を動かしただけで答えた。
「おそらく前の家を出される前に、虫玉か何かを呑まされたのだと思う」
送り出す時に持たせてやった餅か何かに仕込んであったのだろう。毒や薬ならわかるだろう
が、虫の卵など、普段食べ慣れないような餡や味噌に混ぜ込んでしまえば、忍は割合簡単に呑
み込んでしまう。それが主から別れにと特に持たせてもらったようなものなら尚更だ。
忍は、思うより深く主を信じる。そして、主は、忍を疑う。
「今手を打ってやらないと、おそらく夏までには」
忍はそれだけで合点したらしく、己の主を見た。
「家同士で忍のやりとりをすると、そういうことがあると聞いたことがござる。当人にもわか
らぬまま、痩せるばかりなのが都合がいいと」
きっと、ほんとうに手放したくなかったのだ。一生飼って、育ててやるつもりだったのだろ
う。だから最後まで渋ったのだ。売ると、金にせねばならぬと、少しでもいい買い手を探して
おきながら、渋った。手放したくない。よその家のものになるくらいなら。それとも、もしか
したら、あの忍には到底手放せないような内情が含んであったのかもしれない。よそにはやれ
ぬ。けれども、やらねばならぬ。家が傾くなど、そのような非常のことのなければ、こんな苦
しみもなかったものを。
「お早く」
それだけ言って、幸村は辞した。
忍には言ってやるなとも、前の持ち主に問い質すなとも、幸村は言わなかった。
「おかえりー」
ただ、帰って、己の忍の顔を見て、たまらない気持ちになった。
「佐助」
幸村の忍はのんきな顔で履物の手入れをしている。
「なあにー」
おみやげでもあるの、と言った忍は幸村に笑った。
「お台所にね、おまんじゅうあるよ。なんかお祝いだって」
食べに行こ、とたらいの水を流して立ち上がる。
「おれが先に食う」
「ええ」
不満そうな声で草履をぶら下げながら、忍は、なんかあったの、と幸村にまとわりついた。
あの時の忍のうち、二人が死んだと聞いたのは、春の終わる前だった。
うと、と落ちかけた頭に、雷光が刺さった。
まぶしい、と思うより前に、影が覆い被さった。
「……重たい」
自分の耳を塞げばいいものを、なぜか佐助は幸村に被さって、幸村の頭を抱き込んだ。
声も出ないらしい。
幸村の耳にくっつけた佐助の胸が、息を引き攣らせている。
「蚊帳の中には神鳴は入って来ぬぞ」
忍の爪が耳に食い込む。痛い、と指を外させて、幸村は忍の体を押しやった。
「は、入って来ないかもしんないけど」
庭に背を向けている。
「あんた出て行くかもしれないじゃん」
雨はまだ降っていて、細い糸が垂れるように緑を濡らす。
じっと目を見た。
「……ばか」
離せ、と強張った手を解いて、幸村は赤い髪の間に指を入れた。
「かみなりの日、」
20090705
おれが守る