昔、洞窟に住んでた。
川のそばの、アブキっていう崖の下のくぼみ。ちょうど木に斧を叩き込んだみたいに崖の下
がえぐれてて、軒下みたいになっていた。軒下って言っても、洞窟の入り口はぽっかり開いて
いるだけで広く、日が射さない分、いつもじめじめして冷たかった。
そのアブキっていうのが何だったのかはよく知らない。川のそばにはあったけれども、人里
から近いわけでもなく、どこへ行く道がついているわけでもない。名前もないような土地に、
ぽかんとあった。
冬になると雪が吹き込み、入り口から半分が白くなった。手や足を凍らせながら佐助たちは
必死に奥の岩の隙間に逃げ込んで、ひたすら吹雪の止むのを待った。夏にはそこら中の土から
虫が湧いてきて、目だの口だの水気のあるところへたかろうとするから気持ち悪かった。秋は
あちこちで食いものを探すのに夢中で、あんまり何にも覚えていない。ただ、春が一番辛かっ
た。
春窮む。
そういう言い方をするんだと知ったのはずっと後だった。でももう、それだけがずっとずっ
と辛くって、どうしようもなかった。雪が解けて崩れるように、氷が割れて砕けるように、春
窮む。ほんとうにそれだけが身にしみた。
食べるものがない。
山にも川にも、どこにもなんにもない。
そしてそれを探しに行くだけの力が、もうない。
秋に太った分がたった三日の雪で消えていった。あちこちに隠したつもりの食べ物も、だん
だん消えていって、我慢しても我慢しきれないくらい、飢える。凍える。手当たり次第、些細
なことで殴り合った。どうせ広いとは言っても所詮アブキ、端から端まで小便の音が響くくら
いの大きさしかない。うるさい、臭い、汚い、そんなことで切れて喚いて殴り合った。それで
夜になったら、血だらけの顔を寄せ合って眠るのだ。
汚い。
せつないくらい、汚れていた。
よく泣いた。たぶんもうぶっ壊れかけてたから、何かの本能みたいなものだったのだろう。
急に目が熱くなって、どうしようもなくなる。きゅうきゅうきゅうきゅうとうずくまって、よ
く泣いた。我慢できないくらいせつなくって、体中が鳴っているみたいだった。きゅううんと、
体中全部が呼んでいた。
人も通わぬ山中に、物心もつかぬような子供がいる。
岩や木から湧いてきたのでなければ、たぶん、親を呼んでいたのだろう。誰も来ない谷の奥
で、呼び鳴きの声だけは一丁前の鹿の子よろしくきゅんきゅんと、何を誰をとも思わないまま
泣いていた。でもたぶん、どんなに泣いても、ほんとうの人間の泣き声じゃあなかったんだと
思う。初めて本物の子供が泣いているのを見た時、佐助は破裂したのかと思ってびっくりした。
まさか目の前で破裂するとは思わなかった。
「ははうえええええ」
うええええと目の前で子供は泣いていた。
「ははうええええ」
あれも秋だった。
川沿いにくるみを追って谷地を出て、川岸の岩の間に溜まったさるなしを食べた。石の裏の
川虫を摘んで、またくるみを見つけて谷に入った。食えるだけ食って、食えなくなると木の根
に枝葉を集めて眠った。目が覚めるとまた食う。拾った石で芋を掘った。口が痒くなって、手
が痒くなって、体中真っ赤になっても食べ続けた。自分より小さいものは全部食べられると思
っていた。くるみ、くるみ、とまだ青い実のついたままのを石でぶつ。両手を真っ黒にして、
出てくる種をまた延々とぶつ。割れるまでがつがつとぶち続けて、潰れた脂みたいな実を含む。
痺れるくらい苦くて辛い。それでも延々ある限りの実を拾い続けた。
がつ、がつ、と音が響く。手のヤニが乾いて、詰まった渋で爪が浮く。別になんとも思わず
に、邪魔だな、と口に咥えて剥がしかけて、佐助は、藪から飛び出したものに突き飛ばされた。
「あ」
小さなものは、佐助にしがみついて、音がするほど、息を吸った。
「ふ、あ、あ」
くるみ、と佐助ははずみで飛んだ殻を目で追っていた。
あれ、まだ食べてない。
まだ食べてない、と手を伸ばそうとして、佐助は初めて自分にしがみついているものを認識
した。
「──え」
そして目が合った。
目がある。
ぎょっとした。
「な」
佐助は顔のあるなにかを見下ろした。
空気が吸われているのがわかる。それくらい大きく息を吸うと、腹にしがみついているもの
はじいいっと音がするほど佐助の顔を見て、ぶるりと一度震えた。
一緒に吸い込まれるように見ていた佐助はそのまま、それが叫ぶのを聞いた。
「──イギャアアアアアアア」
生まれて初めて、気を失うほどの恐怖を感じた。
崖の下より、
201101202
鬼無里、裾花、鏡池
戸隠御山の山容の人の通らぬ胎内の無数の道の細やかな