幸村が寄ってこない。
「旦那、どしたの」
 おはよう、と朝、自販機で会った時も、佐助を見るなり、むうだかぬうだか熊の子のような
声で唸ったっきり、じりじりと距離を取っていた。
「なに、ココアいんないの。今日まだココアあるよ」
「いらぬ……」
 週末になると談話室の自販機は売り切れが多くなる。ココアやカフェオレは大体木曜日で品
切れで、コーヒーも金曜の夕方には心許ない。お金さえ入れれば出るには出るのだけれども、
麦茶みたいな薄い豆汁だったり、チューブが詰まるのかなんなのか、途中で爆発してカップが
倒れていたりする。自販機もお金を入れてもらった以上はとなんとかがんばってくれているの
だけれども、品切れではどうしようもない。週明けの補給を待つばかりだ。さもなければ選択
肢はメロン豆乳カフェか真っ黄色のリゲインしかない。
「おれ今日甘いの飲んでるからあげよっか?」
「いい……」
 ん、と差し出した手に、幸村が後ずさった。
「なに、どしたの、風邪?」
 普段ブルゾン一枚の薄着のくせに、今朝は顔半分がマフラーでぐるぐる巻きになっている。
「マスク買いなよ? マフラーじゃ代わりになんないんじゃない?」
「大丈夫だ。心配無用」
 風邪などひかん、とそこだけ胸を張る。
「じゃあなんなのさ。旦那の変態」
「誰が変態だっ」
「スケベ」
「誰がすけっ……」
 佐助の後ろを女の子が笑いながら自販機のスイッチを押す。さりげなく場所を譲りながら、
佐助は女の子を見て硬直している幸村の頭の中を想像した。なんだ、あの巻き毛。なんだ、あ
の毛皮。それにあのスカートちょう短い。まつげバシバシ、目の周りがイルミネーションでご
ざる。うわあああああ、おっぱい、おっぱい見えちゃうでござるうううってそれおれか。
「ごめんね、どくわ」
 とりあえず振り返って上乳半分確認しておいた。やっぱりブラのフリル見えてるし。ちくし
ょう、あれ脱がせるやついいな。今日はクリスマスイブだ。
「なんかもうどいつもこいつもクリスマス一色って感じだねえ」
 手に持ったカップも、先週から赤地に柊とトナカイを散らして聖夜ぶっている。きっと自販
機にぎっしり詰まって出番を待っているのだろう。そう思うとなんだかけなげな気がする。ひ
そひそひそ。おれかわいい子のとこ行きたいな。ジンジャーシナモンカプチーノとかちょうお
しゃれじゃね? いいなー、おれそのドリンク入れてほしー。ねー。ひそひそひそ。
 しかし残念、世の中はビターなので、佐助に抹茶入り特濃珈琲とかいうわけのわからんもの
を入れられてくしゃくしゃポイなのだ。
「おれさまナイッシュー」
 かわいそうにクリスマスカップはごみ箱の彩りの一つになった。来年までバイバイ。
「ごみはきちんと手で入れんか」
「はいはーい」
 マフラーの下から幸村が唸る。
「旦那、今日授業あんの?」
「あるから来たに決まっておろう」
「あっそ。別に来たって出なくてもいいじゃん」
「ばかもの。おまえそういう態度だからいつも出席で単位を落とすのだぞ。人より目立つ名前
をしているのだからしっかりしろ」
「もう来年は出席あるやつ取らないもん」
 ばか、と幸村が眉を寄せた。
「そうしたらおまえ、大学に来ないだろう」
「えー?」
 ちょっとぎくりとして、佐助は幸村の言葉をごまかした。
「っていうかさ、旦那、そのマフラー誰の? どっかで見たことね?」
「うっ」
 今度は幸村がぎくりとする番だった。
「ストール? ちょっと旦那が買うにはかわいくね?」
「うっ」
 大判の柄物は、幸村がてきとうにぐるぐる巻きにしていても、なんとなく様になって見える。
「なんかオシャレ男子っぽくね? 旦那、クリスマス仕様?」
「し、知らぬ……」
 首のぐるぐる巻きをほどこうと手を伸ばすと、幸村はまたじりじりと後ろに下がった。
「ちっ、近づくな……」
「なんだよー、旦那までリア充なんておれさま許しません」
「やっ、やめ、うわあああ」
「大人しくしなっ」
 幸村はなぜか生命線のようにマフラーを掴んでいる。一瞬ほんとに風邪なのかな、と思った
けれど、セレクトショップのタグを見て納得した。
「ちょっとあんたー、これ慶次のじゃん」
「離せええ」
「そういやあんたこういう手触りのやつ好きだよね……」
 マフラーの両端を掴まれて、幸村は手綱を取られた馬のようになっている。勝手に慶次のマ
フラーをぱくっているというのに、遠慮も会釈もなく引っ張って、もしかしてこのまま引きち
ぎるつもりなのかと疑った。慶次ならマフラーくらい何本でも持っているだろうけれども、知
らない間に、よりによって幸村にぶっちぎられるなんてかわいそうだ。幸村は手加減する様子
もなくぐいぐい引っ張っている。なんだかサーカスの熊みたいだ。
「うぬうう」
 マフラーの手綱を操りながら、佐助は幸村の耳が真っ赤になっているのを眺めた。茶色い髪
から先っちょのとんがっているのが飛び出している。なんか犬っぽい。
 後でいじくろう、と佐助はマフラーをぎゅうぎゅうする。
「これ慶ちゃんもお気に入りでしょー。あんたちゃんと返しといたげなよ」
「うわあ」
 あっさり手を離されて、幸村は勢いあまってすぽんと飛んでいった。
「なにをするっ」
「なあにー? 旦那が離せって言うから離してあげたんじゃん。ありがとうはー?」
「盗っ人猛々しいぞ佐助!」
「えー、あんたに言われたくねえなー」
 ソファにひっくり返って、幸村はぷんぷん怒っている。
「ふうん……」
 けれどもまあ、全身を眺める限り、マフラー以外は普段と特に変わったところもない。
「真田幸村、クリスマスイブ異常なし……」
 はあ、と佐助はため息をついた。
「人を見下ろして嘆息するとは何事だっ」
「いやあ、旦那がいつも通りでよかったなと思って。おれさま安心しました」
「安心!?」
 なぜか幸村がぎくりとソファで強張った。
「そうそう安心安心。おれさま旦那がちゃらちゃらちゃらちゃら、やらしーことしてなくてよ
かったなと思って安心しましたー」
「やらしいこと!?」
「独眼竜とか絶対なんかやらしいことしてんだぜ。おれさまやってらんねー」
 幸村の目が泳ぐ。まあ、幸村もしていないだけで考えるくらいはしていたのかもしれず、け
れどもまあ、それくらいなら佐助だって許してやらずばなるまい。だいたい自分で告白するが、
妄想の度合いでは具体性のある分、佐助の方が確実に罪が重い。かすがのレースブラ。
「だんなーあ」
 佐助はソファの幸村に向かって身を投げた。
「おれさまかわいそう」
 抱きしめて、と覆い被さった佐助の耳許で、幸村は化け物にでも襲われたような悲鳴を上げた。



 言えない。
 とてもではないけれど、誰にも言えない。
「──ひッ」
 リアルに自分の悲鳴で目が覚めて、幸村はふとんの上で硬直した。
 心臓がどくどくする。脂汗をかく。見開いた目で天井を見つめたまま、幸村は硬直した。
 夢を、見てしまった。
 普段そんなに夢を見るような性質ではない。転がれば眠るし、目が開けば起きる。子供の頃、
眠っている間は心臓が止まっているのだと思っていたくらいだ。正直な話、生まれてこの方、
初夢も見たことがない。
 その自分が夢を見た。
「……ひい」
 思い出して、思わず声が出た。
 言えない。
 誰にも言えない。
 金縛りに遭った時というのはこんな気持ちだろうかと見当外れなことを考えて、幸村はがま
の脂もかくやという冷や汗をかいた。
 夢を見た。
 首を動かして、恐る恐る壁際のカレンダーを見る。間違いない。今日は12月24日。クリ
スマスイブの金曜日の朝。思うと、またぶわっと汗をかいた。
 おれは、なんということを。
 おそらく立っていたなら膝から崩れ落ちていただろう。
 幸村は夢を見た。
「おやかたさま……」
 もしかしたらキリストに祈るべきなのかもしれないけれど、幸村は胸から血を流す半裸の男
相手になんと言って祈ればいいのかよくわからない。それに今この状況では、彼がその胸を貫
く槍でもって追いかけてこないとも限らない。
 幸村は夢を見た。
 佐助とキスする夢を。
「う」
 一度声に出すと我慢ができなくなった。
 気持ち悪い。
 佐助とキスした。
 しかもよりによってこの日、この朝に、この時に。
 なぜ、この朝に。
「う、う、うおっやかたさばああああああああああああああ」
 ああああと、クリスマスイブ、幸村の声が清らかな静寂をぶち破る。



 講義が終わってケイタイを見たら、佐助からメールが入っていた。
(旦那、ごはん食べよ)
 文末に何か記号がついていたらしいが、残念ながら省略されてかっこの中にはてなが入って
いる。幸村の知らない間に最近のメールは進化したらしい。さっぱりわからん、と閉じた瞬間、
ケイタイが狙ったように震え出した。
「旦那ー」
 食堂の端っこー、とそれだけ言って、あっさり通話は切れた。待ち受け画面で日付表示が遠
慮深そうに12月24日を教えている。
「コミュニケーション能力……」
 きゃはははと女子のグループが行き過ぎて、白とピンクがイルミネーションみたいに階段を
降りて行く。



 なんだかわからないけれど、やっぱり幸村が寄ってこない。
「ねー、旦那ー」
 なんかしたっけと、佐助はボックスの椅子をぎしぎしさせて幸村を見る。
「寄るな」
 幸村はさっきからそればっかりで、佐助が近くにこないようにソファの周りに荷物で壁を作
っている。佐助のお気に入りのクッションは真っ先に犠牲にされて、かわいそうに一番下でぺ
っちゃんこだ。
「遊んでよー」
 ねーってばー、とさっきから構ってほしいオーラを出しているのに、幸村は、うるさい寄る
な来るなのはりねずみ状態で全然おもしろくない。佐助は唇をとがらせた。
「なんでだよー。さっきからあげ一個あげたじゃん」
「おまえっ」
 がばっと顔を上げて、なぜか幸村が傷ついた声を出した。
「からあげ一つくらいでおれの心が癒せると思うなっ……」
「なんで涙目なのよ」
「うるさいっ!」
 はりねずみは全身の毛を逆立てた。どうあっても今日は佐助に触られたくないらしい。
「なんなのさ。いいじゃん、クリスマスくらいなかよくしようよ」
 ひいい、とマンガのように幸村の顔色が変わる。
「おまえはよく軽々しくそういうことを……!」
「え、神様そう言ってんでしょ。今日は世界がなかよくする日なんじゃないの?」
「限度がある」
「まじすか」
 眉間にしわを寄せて重々しく宣言する。いまいち線引きがよくわからないけれども、椅子に
そっくり返って、佐助はその宣言を聞いた。
「ある」
「まじすか」
 ある、と頷く様子は、なんとなく何かの修道士っぽい。
「禁欲的っすね」
「当然だ」
「ありがたいっす」
 逆さまになって手を合わせると、子供の頃保育園でクリスマスツリーを拝んでいたのを思い
出した。毎日おやつの時間にみんなでなむなむしていたような気がする。そう思って見ると、
汚れた目にはますます幸村が輝いて見えた。
「やべー、ありがてー」
 真剣にお願いすれば叶う気がする。佐助は脳裏に直近三日分くらいの願望を並べ上げた。間
に最近見たかわいい子の顔が三十枚くらいはさまったけれど、佐助は意外と自分が清らかなの
を確認した。だって、湧き上がってくる感情がこれしかない。
「旦那、ちゅうしたい」
 くちびる、くちびる、グロスでぷるぷるのちょうかわいいあひる口。
 ぷわああっと佐助は自分からかわいいオーラが出ているのを感じた。
 ピンク、ピンク、ぷるぷるピンク、ちょうかわいい。
「旦那、ちゅうしたい」
 は、と幸村が硬直した。
「ちゅうしたい」
 そう思うとテンションが上がった。
「ちゅう! ちゅう!」
 椅子の背につかまってくるくるしながら、もし佐助にしっぽがあったら振っていた。ってい
うかチワワだったら完全にピュアな顔しておねえさんにちゅうしまくっていた。むしろ黙って
いてもちゅうされまくりのなでなでされまくりのだっこされまくりだったかもしれない。うお
おおお、おれさまちょうジゴロ。
「やべえ! おれさま犬になりてえ!」
 幸村が、ふらっとした。
「お、おまえ……仮にも聖夜だぞ……」
「持ってこいじゃね!? 目が覚めたらおれさまが枕元にいて、ちょうピュアな目でぷるぷる
してんの! これはどんな美女でもちゅうせざるを得ない!」
 キス、キス、と佐助は空想のしっぽを振った。
 かすがにだっこされて、おっぱいら辺にぽふっとしながら優雅にキス。いやむしろベーゼ? 
おれさまベーゼ的な? なんかフレンチ的な? クリスマスボンジュー、かすが様。
「いいねー、クリスマスっていいねー」
 妄想するだけならタダだ。妄想だけならかすがに蹴られることも殴られることもなく、平和
に幸せなちゅうを堪能できる。ただし、いつまでも自分がチワワだとちょっとかっこ悪い。ふ
んふーん、と鼻歌をうたいながら、佐助はご機嫌におフランス妄想を繰り広げた。
「できればおれさまも男前相手の方がいいよね……」
 ん、と振り返ると、さっきまでソファに突っ伏していたはずの幸村が、青い顔で佐助を見下
ろしていた。
「佐助……おまえそんなに誰彼構わず口づけがしたいのか……」
「口づけって!」
 佐助は爆笑した。
「でもそれいいね、なんかちょう古風な感じする。やべえええ、おれさまも口づけしてえええ」
「したいのか……」
 その声に滲む絶望に、佐助は気がつかなかった。
「そんなことを許すわけにはいかん……」
「えー、やっぱだめー?」
 12月24日、クリスマスイブ。
 聖夜に生まれた神の子は、自らの身を犠牲に万民の罪を贖ったと言う。
「神よ……」
 幸村は天にまします神に祈った。
 息を吸う。
 所詮ペンギンの餌付けと思えば問題はない。
「──御免ッ」
「んあ」
 その日、幸村と佐助の初めてのキスが、めでたく世の歴史に刻まれた。




[kiss]

20101225
うっ うえええええええええ
100000Hitsのリクエスト
牧野さん「大学BASARA」


文章 目次