「おれ様、魚になっちゃってもいいの?」
 もう、何でもめたのだったかも忘れた。
「構わぬ!」
 ただもう頭に血が上っていて、自分の忍が憎らしかった。
「そしたらおれ様もう帰って来ないけど、いいの?」
「知らぬ!」
 幸村の忍は、殴られた頬を赤くしていて、それを押さえもしないのがまた憎らしかった。
「……いいの?」
 どこへでも行け、と怒鳴った。
 忍は、その声を吸い込むように、大きく目を開いて――消えた。

 うそ。
 ぱしゃん、と音がして、忍が一人、消えた。
「――え」
 つい、立っていたと思った場所には跡形もなく、忍が一人、消えてしまった。
 消えてしまった、と呟いて、ぞっとした。
 その日、いなくなった忍は、屋敷中、どこをさがしても見つからなかった。

 月が替わっても、幸村の忍は姿を現さなかった。
 うそだ、と思ったまま、時の経つのに、幸村は恐怖した。
 もう戻らないと言った。
 寝床に横になったまま、目だけつむって、考える。
 そうしているうちに雨が降り出し、眠ってしまった。
 そして、冷たい手が唇をなぞる。
 朝にはもう、雨は止んでいた。

 こっそり食おうとしたら、取り上げられてしまった。
「なに、それ」
 向こうの池にまだ残っていた、と小さな氷を見せると、忍はたちまち渋面になった。
「もう夏だよ。おかしいよ。それ」
「だが、冷たい」
「氷じゃないよ、絶対」
「だが冷たい」
 確かめてみよ、と手のひらに載せたのを差し出す。
「うそだあ」
 疑り深い様子で、幸村の手に唇を寄せる。薄い唇がそれに触れて、忍は目を丸くした。
「氷だろう」
 得意になって言う幸村に、忍は驚いた顔のまま、でも違うと思う、と言った。
「たしかに、冷たいけど」
 そう言って、しきりに唇を拭う。
「ばかを言え」
 冷たくて、透明なら、氷であろう。
 蜜で食うのだ、と器へ投げ入れると、かろん、と音を立てて、半分に割れてしまった。
「あ」
 忍が、妙な顔で幸村の手許を覗き込んだ。割れるものだとは思っていなかったらしい。
「――割れたね」
 漆の器の中で、透明できれいなものがころころと転がる。
「仕方がない」
 忍の返事も聞かずに、幸村は用意の匙で小さい方のかけらを掬った。
「佐助」
 呼べば反射のように顔を上げる。
「なに」
 答えたその口に、小さなかけらごと、匙を入れる。
 ごく、と小さく喉が鳴って、幸村の忍は呆気なくそれを嚥み込んだ。
「――おまえ、忍のくせに」
 何でも口に入れたものを嚥むな、と常の小言を仕返してやる。
 忍は、目を開いたまま、もう一度、こくん、と喉を鳴らした。
「――佐助?」
 ぼんやりとした目が、幸村の手許を見た。
「どうした」
 何かまずかったのだろうか、と覗き込むと、忍は、ふっ、と冷たい息を吐いた。
「――それ」
 食べちゃだめ、と言われて、器を見ると、残ったはずの氷は、解けて跡形もなかった。
 不思議に思って、器を傾ける。
 その手を掴んで、忍が器の水を土にこぼした。
「なんだ、急に」
「いいから」
 己の忍があんまり厳しい顔をするもので、その水が足にかかったことは、言えなかった。

 唇が濡れている。
 ふつふつとしずくが湧くように、唇が濡れていた。
 なんだ、と思いながら、肩口で拭う。
 その夜もまた、雨が降った。

 目の前を白い泡が上がってゆく。
 水の中か、と思って、目が覚めた。
 左の手から、ほつ、ほつ、としずくが垂っている。
 不思議なこと、と思って、その筋を舐める。

 喉が渇いた、と井戸端に屈む。
 しきりに水を汲み上げ、浴びるように飲む。
 じきに夏も終わるというのに、何であろうか、とまた口をつけ、来客の音を聞いた。

「政宗殿」
 馬上に知った姿を認め、幸村は唇を拭った。
「よお」
 来たぜ、と言うのに、呼んでもおらぬのに、と笑い、おお久し振りに笑った、と思った。

 来客は柱にもたれて縁側から庭を見ている。
 緑ばかりの庭の何がおもしろいのか、先ほどからそうしている。
 幸村はとうに退屈して、ぼんやりと鉢の中の水で遊んでいる。
 唇を拭う。左の手からは、相変わらずほつほつと小さなしずくが湧いていて、手首を伝
って鉢の中へ落ちる。ちょうど掻き傷からの血がこんな風だな、と指先を遊ばせた水面を
眺める。眠たい、とあくびをした。
「政宗殿」
 何か遊んでくれるのかと思ったのに、退屈だ。
 呼んでも答えぬ横顔に、幸村はがっかりする。
「政宗殿」
 あくびまじりに呼んで、黒髪を眺める。
 隻眼が、庭を映して、青く光る。
 おおうまそう、と思って、目を閉じた。

 忍の姿を見たような気がして、目を覚ます。
「なんだよ」
 目の前にいたのは別の男で、名を呼ぶ気も失せて、丸まった。
「――佐助がおらぬようになりましてな」
「……んだよ」
 無理するように、男が笑った。
「さびしいとでも言うつもりか」
 丸まった畳の上から、男の顔を見る。男は少し痛いような顔をしていて、幸村は、知っ
ていたのだなあ、と思う。
「おらぬようになりました」
 ぱちん、と目を閉じると、言葉の通り、さびしいと思った。
「それがしの忍だったのです」
 思うと、閉じた目から、涙が流れた。
「おらぬようになりました」
 男は困ったように幸村の顔を覗き込んで、やはり困ったように、泣くな、と言った。
「戻ってこねえのかよ」
「戻れませぬ」
 遠くで光る、水面の鮮やか。
「戻れませぬ」
 男は、片一方きりの目を瞬いて、幸村を見た。
「――そうかよ」
 泣くな、と男の手が目を塞ぐ。

 細く雨が降り出して、座敷の中が少し冷えた。
 その音を聞きながら、幸村はこめかみに当たる手首の熱を感じる。血の流れる音まで聞
こえるようだ。目の裏に血の赤が映る。奔るような血の赤。
 手を掴む。
「なんだ」
 黒髪の男。
 垂れる前髪の間から、青い目が光る。ほつ、と唇が濡れた。

 うまそう、熱そう。
 喉が渇く。
 うまそう、と口を開けた。

「――何をなさる」
 唇を割って舌を入れる。ぬくい、と満足した瞬間、突き飛ばされた。
「おまえ」
 唇を拭う。
 うまそうだったのに。
 そう思うと、唇が濡れた。
 雨音に混じって、ばか、と忍の声が聞こえた気がして、少し笑った。
 男の唇から、赤い珠になって血が滲む。
 見惚れたまま、惜しい、と思った。流れ出してしまっては、どんな濃い血も冷えてゆく。
 忍を殴った。腫れていた赤い頬。あれに触れれば、あの時まだ、熱かっただろうか。
 雨が遠ざかり、空白に光が射す。
 舌先に血の名残。命の赤。
「おまえ――」
 男が顔を歪めたのを、おもしろく見た。
 裾から出た脚に、真珠の鱗。
「その脚」
 どうした、と言う前に、黒髪を掴んだ。あらわになった額に歯を立てて、なぞる。赤く
浮き上がった傷痕に触れると、手の中で片目の頭が震えた。
 そうだ、これは、病の子。
 上を向けた姿に、長くくちづける。
 それがこくんと喉を鳴らすのを見て、笑った。

 ほつり、と男の唇から、しずくの垂つ。

 雨の晴れた水縁で、己の忍を見つけた。
 半身を水に浸けたまま、薄い唇で幸村の名を呼んだ。
 退屈した時によくそうしていたように、手許に小石を集めて山を作っている。
「おばかさん」
 無造作に投げて寄越されたものを受けると、それは赤く美しい珊瑚。
 伸ばされた手を辿り、頬に触れる。

 闇をも焼いて山の燃え、赤より熱く秋の来る。
 狂うほどいとおしい己の命。




ささ波閉じよ、
20070910
うまそううまそうかわいそう

「Elekitel Rider 07」ガム様のリクエスト
確信なのか天然なのか分からない、黒なの?灰色なの?な、 真田を、
あーもーこいつ本気で死んで欲しいな、むしろ俺様 がころす、とか思いながらも、
でもやっぱりだんなだいすき!みたいな佐助
若干バイオレンスとか流血風味

…――えっ?(きょどっ)


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