佐助が耳を噛んでくる。
 首筋辺りから耳の付け根まで、一通りやわらかいところは囓り終わって飽きたらしい。歯で
も痒いのか、わざわざ薄い骨の通ったところに歯を立てる。痛い。痛いし、少し、気持ち悪い。
「やめろ」
 上に乗っかったのに頭をぶつける。
 目の横にでも当たったらしい。忍は、にゃっ、と不細工な声を上げた。
「爪を立てるなよ」
 主の上に被さったまま、佐助はぶうぶうとふくれた声で唸っている。かえるに似ているな、
と幸村は雨の縁先を見た。秋になってすっかり見なくなったけれども、牛蛙によく似ている。
ぶうぶうと鳴きながら、佐助は幸村の衿に爪をかけた。首が絞まる。
「わかったわかった」
 背中に向けてちらちらと指を出す。それに気を取られたのか、衿を引く手が弱まる。懐くよ
うに幸村の指に額を寄せて、佐助はぐるぐると喉を鳴らした。ちゃらちゃらと額を触られるの
がおもしろいらしい。じっと動かなくなった体がじんわり熱くなって、なるほど気に入ったの
だな、と幸村はため息をついた。気に入ったはいい。おとなしくなったもいい。けれども本物
のねこ気取りで背中に陣取られては幸村とて困る。
「佐助、煮干しくさい」
 どうせわかっていないと乱暴にすると、幸村の首の辺りを匂いでいた忍は、あっさり揺すり
落とされて、また怒りの声を上げた。
「しようがないだろう、おれまで煮干しくさくなってはかなわん」
 よほど怒っているらしい。爛々と睨みつける目が普段の倍くらい大きい。こいつはこんな顔
をしていたのかと驚いた。佐助は手足をきゅっとまるめたまま、本物のねこのように、じっと
幸村を睨んでいる。
「……おまえ、次噛んだら酒樽に詰め込むからな」
 ひくひくっと忍の鼻が動く。
「今度こそは許さんぞ。誰のせいでおれが歯形だらけになったと思っているのだ」
 ばかたれ、と頭をはたくと、忍は首をすくめて、一瞬後にはシャーと威嚇する声を上げた。、
目玉がきらきらして、口の端から八重歯が見えている。
 なるほど化け猫というのはこういうものなのかもしれない。人の顔なのに、獣に見える。己
の忍ながら、相対すると怖い。このまま元に戻らなかったらどうしようとふと思い、思ったこ
とに幸村は恐怖した。
 困る。そんなことになったら困る。
 幸村は、じっと己の忍と見つめ合った。
 これは厳しく躾けねばなるまい。
「佐助……」
 忍もじいっと幸村を見つめて、にゃあんと鳴いた。
「鳴いても許さん!」
 ばちーんと振り下ろした拳を人とも思えぬ素早さで避けて、佐助は幸村に牙を剥いた。



 他の忍が言うには、事の起こりは一昨日佐助を上杉へ遣いにやったことに遡る。
「一日で帰ってこい」
「はああああ!? 何それ今日中に帰ってこいってこと!?」
「夜には戻れ」
「そんなのむちゃくちゃじゃね!? おれさませっかく上杉に行くのにかすがに会うひまねえ
じゃん!」
「そういうひまは自分の休みにでも作れ」
「休みねえじゃんよ!」
 いいから、と送り出した忍は、夜、幸村の寝入り端に戻ってきて、帰参の報告をして行った。
わざとらしく枕元に現れて、じいっといやな目つきで見下ろしていた。遊びの時間を与えなか
ったのが、よほど不足だったらしい。気配に目を覚ました幸村はぎょっとした。
「書状もお届けいたしましたー。みなさんお元気でしたー」
 どろどろと妙な闇をまとわせて、忍が幸村を見下ろしている。
「忍一日走らせといて、ご主人様は早寝なんていいご身分だねえ」
 佐助の恨みを買うと、その夜一晩は夢見が悪いと言うが、ご多分に漏れず、幸村もその日朝
までうなされて過ごした。たしか政宗の刀を探す夢だったと思う。辺り一面に政宗の刀が落ち
ていて、拾っても拾ってもなくならないのだ。しかも六本集めたと思った刀は、気がつくと二
本三本と足りなくなっている。
 目が覚めた時にはほっとした。
 なんだか妙に疲れる夢だった。
「……目覚められましたか」
 けれどもほんとうの災難はそれからで、幸村様、と呼ばれて土間へ出て行くと、そこには幸
村の忍が首に縄をかけられて、ニャーニャーと騒いでいた。
「……なんだこれは」
 頭痛がした。
「ほーれほれほれ、ねこじゃらしだぞー」
「煮干しだぞー」
「しその葉はきらいかー。とうがらしはきらいかー。ほれー」
 佐助は首に輪を通されて土間の柱につながれている。その前で、忍たちが佐助をからかって
遊んでいた。それに佐助はシャーシャーと外にまで聞こえるような声で威嚇しながら、縄を解
こうと首を振って怒り狂っている。手で解こうとは思いつかないらしい。
「どうします?」
 どうするもこうするも、忍の声に、幸村は脱力した。
「もう、おれにはわからん……」
 思わず両手で顔を覆った。
「しっかりしてください幸村様」
 忍は淡々と紋切り型のことを言う。
 幸村はくたくたとその場にうずくまった。
「なんだ……。朝っぱらからあれはどこのねこ殿にご迷惑をおかけしたのだ……。誰か……誰
か今すぐ謝ってこい……」
「そうしたいのは山々ですが」
「待て。待て、気持ちはわかるが捨てねこにはするな。町の者が迷惑する」
「捨てたら捨てたで絶対仕返しに来ますしね。あいつ」
「それもそうか……」
 はあ、と板の間に座り込むと、主の声を聞きつけたのか、佐助がぴーんと縄を引っ張って、
さも助けを求めるように甘えた声を出した。
「呼んでますよ、幸村様」
「……知らん」
 にゃあんともう一遍鳴いて、佐助はぷすぷすと鼻を鳴らした。いかに自分が哀れな状況なの
かを訴えているらしい。ちら、とそちらを見ると、目が合った。思い切り幸村を頼る目をして
いる。逸らすに逸らせず、幸村は唸った。
「どうしてこうなった……」
「呼んでますって」
「おれの忍はねこではない……」
「一応見た目は人ですよ。それはともかく、いついかなる時でもあなた様が主なんですから、
どうにかしてください」
「いやいや、おまえ都合のいい時ばかりそういうことをだな……」
「あ、主のくせに都合が悪くなったからってそういうことおっしゃいます?」
「都合うんぬんの話ではないだろう!」
 それもそうですね、と忍がぽんと手を打った。
「よし、後は幸村様にお任せするぞ! 縄を解け! そのバカを自由にしろ! 解散!」
「なっ」
 手品のように忍の手が縄目を解く。
「わ、わ、わ」
 解き放たれた瞬間、バカと呼ばれた忍は、一目散に床を蹴った。そしてそのまま並のねこが
するように、幸村の懐目掛けて頭から飛び込んだ。
「お、おまえなあっ」
 避けるに避けられず、佐助の頭突きをまともに受けて、幸村は情けない声でひっくり返った。



 そのまま佐助の飼い主になって昨日今日と二日が経った。
 どうも忍たちの言うことを総合すると、幸村の所行に腹を立てた佐助が、戻ってきてやけ酒
をするも、手持ちの酒がなくなったので、何を思ったのか招き猫の裏に隠してあったまたたび
酒を飲んだらしく、招き猫の祟りを受けたのだろうという話だった。
「……祟るのか、招き猫は」
 さあ、と一様に首を傾げながら、忍たちは口々に憶測を言った。
「よほど大事な酒だったんじゃないですか」
「誰もあんなとこ酒なんか置いとかないですし」
「あの招き猫自体いつからあんのか誰も知らないですしね」
「そもそもまたたび酒を一本飲み干すってこと自体がおかしいんですよ」
「っていうかそんなもんまで飲まなきゃやってけねえなんて、長、おかわいそうに……」
「長……」
「ねえ……、別にちょっと人に会うくらい……」
「長のお気持ちくらいご存じのくせに……」
「どうせそんなに急ぎでもないくせにわざわざ上杉まで走らせておいて……」
 ふっつりと口を閉ざして、忍たちがじいっと幸村を向いた。
「長……」
「おかわいそう……」
「なんてひどい主なんだ……」
 てっきり自業自得だと思っていた幸村は、話の展開に驚いた。
「待て! おれか!? おれが悪いのか!?」
 誰も答えなかった。
「そ、その目をやめろ……」
 そうして忍たちのじっとりとした目を受けて、幸村はこの有様だ。
「佐助! 大人しくしろ! ねこならねこらしく縁側でまるまって寝ておけばよいのだ! な
ぜおれを噛む! 床をひっかく! 後で痛い思いをするのはおまえなのだぞ!」
 主に馬乗りに押さえつけられて、佐助は全身の毛を逆立てて怒っている。
「おまえがねこなら甘噛みのつもりかも知れんがな、大の男に噛まれたのでは痛いのだ!」
 わかるか、と両手を押さえたまま覗き込むと、佐助は妙に真摯な顔で幸村を見つめていた。
「……早く戻ってくれ。おれの身がもたん」
 思わずため息になった。
 佐助は幸村の顔が近くにあるのがうれしいのか、目をまるくして、ぐるぐると喉を鳴らして
いる。
「そうかそうか」
 はあ、とため息混じりで額を寄せると、佐助はうれしそうにぐりぐりと首を動かした。目を
細めているのを見ると気持ちいいのだろう。幸村は跳ねた髪が顔に当たってこそばい。
「疲れた……」
 なんだかどうでもよくなって、ぐったりと力が抜けた。
「にゃあん」
 下敷きになっているというのにこたえないらしい。佐助はぐるりと仰向けになると、幸村の
髪で遊び始めた。



 その日の夕飯は、幸村が鯉のあら汁で、佐助が鯉のお造りだった。
「祭りの日でもないのに贅沢だな、おまえは」
 幸村の横に控えて、佐助は機嫌よく自分の番を待っている。放っておくと皿に口をつけて食
べるので、しようがなく幸村が順々に口許まで取ってやることになった。
「ほれ」
 箸で渡すと食べにくいらしい。手のひらにのせてやると、次々とおもしろいように食べた。
ぱくっと器用に取っていくのもおもしろかったが、口を近づける一瞬、ふわっとあたたかいの
もおもしろかった。
「うまいのか」
 元々魚だのなんだのの類の好きな男だし、否やもないだろうけれども、こう、自分の手から
食べるのを見ていると、なんだかかわいらしいような気もする。じいっと見ていると、空にな
った手をなめて、もっとほしいというような仕草をした。
「佐助、おまえもう持ち主のわからぬものを飲み食いするのはやめろ」
 な、と言ったのがわかっているのかわかっていないのか、佐助は幸村の手をなめている。
 子供の頃はわからなかったが、どうも忍たちはお互いに始終何かしらでけんかをしているら
しく、仲裁に呼ばれて言い分を聞いてみれば、事の発端はだいたい、誰がどこの何を食ったの
誰の何を食わないのといった話だった。特に酒と菓子は揉めるらしい。しかも突き詰めてみれ
ば、下手人はいつもたいてい同じ面子だった。佐助も往々にしてよく名の挙がる部類で、しか
も犯行の巧みさゆえ、なかなか検挙されない凶悪犯であった。
 そう思うと、今回の件も、どうも誰かに罠にはめられたのではないかという気もする。
「元に戻ってもおまえの隠し財産はもうないのではないか……」
 そう言えば昨日は忍連中で酒盛りをしていた。あれは佐助秘蔵の薩摩の焼酎だったのかもし
れない。たのしそうな声が聞こえる中、幸村は一晩中腹に佐助を抱えてうなされていたのだ。
いくら秋口でも、同じふとんに男一人抱えていたのでは暑苦しい。なのに佐助が当然のように
幸村のふとんに頭を突っ込んでくるから、同衾するはめになったのだ。しかも佐助は佐助で自
分はすっかりねこのつもりでいるから、ふとんから半分体がはみ出しているのに納得がいかず、
ぐいぐい幸村の腹を押して怒っていた。
「ねむい……」
 思い出すと急に眠気が来た。
 行儀悪くあくびをしていると、佐助がこてっと膝に頭をのせてきた。寝るの、寝るの、とで
も言いたげに、目をきらきらさせてわくわくしている。
「……おまえは押し入れ行きだ、ばかたれ」
 そう言って鼻先を小突くと、佐助はぷうと生意気な顔で鼻を鳴らした。




「サタハニカ」

20101010
押し入れなんかぶち破っちゃうもんね!


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