体中刺青だらけで、抱こうにも気が萎える。
 背にも肩にも、紺とも藍ともつかない色で柄が入れてあって、まるで汚れた人形のようだ。
「旦那」
 腿やふくらはぎ、腰や腹の横にまで墨が入れてあって、初めて見た時は、思わず気持ちが悪
いと思った。
「旦那」
 罪人のように、望まず入れられたわけではない。
 身分の低い忍や無法の者の中には、己の肌身に柄を刺して、その優劣を競う者たちがいる。
大抵は幼い時に訳もわからぬまま最初の針を入れられて、後はもうなし崩しに自分の肌を埋め
てゆく。
「お金をね」
 持たすと逃げるから、と忍は言う。
「稼いだら稼いだ分だけ刺青するのに遣わすの。最初はわざと粗い絵しか入れてくれなくて、
いくつもしてるうちに段々きれいなのを入れてくれるの」
 ここ、と忍は右の肩口を見せた。
「もう肉の中まで入ってるから取れないけど、これが一番高かったやつ」
 鳥、と肩から腰の下まで羽を広げる、真っ黒な絵を見せた。
「きれいでしょ」
 羽根の一枚一枚、肌の色の残らぬほど細かく青が埋め尽くす。
「ね」
 薄くおうとつのある肌は、ここに傷があったのだろうと思わせる。指で辿ると、佐助は僅か
に身を震わせた。
「きれい?」
 ねえ、と聞く、捻った首筋にも青く波の柄が入っている。
「ーーああ」
 手のひらで撫でる。
 肉の下に骨の並ぶ感触がある。そして、狂ったように刺青の施された肌には、傷跡がある。
 佐助は傷跡を隠すように、濃く深く墨を入れた。
「……それは体中増える訳だ」
 波や風の文様を好んだ。
 神や仏の類いではなく、花や獅子でもない。
 佐助の体は青い波が走り、風が黒く渦を巻いている。
「ここもこんな風にしてしまったのか」
 脇腹に走る傷に触れると、佐助が自慢げに鼻を鳴らした。
「神鳴の柄にしてもらったの」
 深く残った傷跡を雷に見立てた墨が囲う。
 腹に刺し込むように、鮮やかな雷が肌の上に浮き上がる。
 我慢できないのか、と幸村は口を閉じた。
 初めて姿を見た頃、忍の両手は縦横に走る細い傷で埋め尽くされていた。腿やふくらはぎの
裏に重なる傷も、戦の傷でも何でもなく、ただ折檻の跡だと知った時は、息を呑んだ。
 夏になっても着物を脱がず、桶に汲んだ水で夜中一人で体を拭っていた。傷の膿んだのが臭
うからと、人一倍気にして肌を見せるのをいやがった。こっそりと夜中に水音をさせる忍は、
はぐれた獣のようで、幸村を妙に哀れな気持ちにさせた。
 そういえば、これが刺青をするようになったのはいつからだっただろうか。
「きれい?」
 忍は同じことを聞く。
「ーーああ」
 幸村も何度も同じことを答えながら、墨で汚れた肌に触れる。
 もう治らぬのか、と聞くのも億劫で、幸村は忍の髪に顔を埋める。こうしてしまえば、忍が
どれだけ醜い腕で触れようとも、幸村にはわからない。
「旦那」
 忍が幸村の首筋に擦り寄る。
「ね、触っていい?」
 ねえ、と聞く、その指が背に流れる髪を梳く。
 腕にも、手の甲にも、いつの間にか忍は墨を入れてしまった。そのくせ柄や大きさに拘るで
もなく、忍の体は左右でちぐはぐになっている。
 なるほど、と思った。
 金を持てばすぐに墨に遣ってしまう。
 真珠や黄金を欲しがるわけでもない忍にとって、刺青をするのは己の体を飾ることなのだろ
うか。幸村にとっては汚れのように見える墨の跡も、忍にとっては美しく見えるのだろうか。
墨で覆い尽くされた肌が美しいと思っているのだろうか。
 幸村にはただ、見苦しいというのに。
「ーー触ってもいいよ」
 囁くように忍が言う。
 幸村の髪を弄る指は、そこだけまだ白い。
 立て膝の臑にも鱗のように青々と波の柄が走り、まるで化け物を抱いているような気になる。
「ね」
 触ってよ、と乞う忍は、なるほど、もうこんな姿ではここより他へ行くことはできない。
「旦那はどんな柄がいい? 次は旦那の好きなの入れてくるよ」
 手甲をして、脚絆を着けて、佐助はいつも肌の見えない格好をする。それを脱がせて初めて、
幸村は己の忍に醜い刺青の増えているのを知る。
「ね」
 擦り寄った首筋に歯を立てて、佐助は主に甘えている。
 何がいい、どこがいい、と忍は幸村の髪を引く。
「刺青の多い方がね、主人に可愛がられてるっていう証拠なんだよ。みんな一目見たらわかる
よ。長い間おんなじ主に飼ってもらえてて、大事にしてもらえてるってこと」
 ねえ、と忍の目が幸村を見る。
 それは妙に不安な色で、幸村を見詰めて濡れている。
「おれさま裏切らないよ」
 もし主を替えるとなれば、この忍は体中の皮を剥がして、傷跡を焼き潰してしまわなければ
ならない。けれどもそうしたところで、これはまた別の主のために墨を入れて取り繕うような
気もした。
 いっそ、今、剥がしてやろうか。
「佐助」
 そんなことをすれば、きっとこれは苦しんで苦しんで死ぬだろう。たとえ生き延びたとして
も、二目と見られぬ姿になるのは間違いない。
 首筋の文様を抉ると、佐助は泣き声を上げた。
「そこやめて……!」
 魔物の腕で顔を覆う。
「なんでわかってくんないの……!」
 青く汚れた指の下で、引き攣るように唇が裂ける。
「お願いだから疑らないで……!」
 忍など元より人と契りを交わせるだけの身分もなく、人の信を受けられるだけの価値もない。
それでも必死に己の忠心を表そうとする、佐助の最初の刺青は、首筋の小さな青だった。
「旦那、見て」
 針の傷に腫れ上がる、ほんの小さな模様を見せて、忍は興奮していた。
「なんだそれは」
 よくわからずに首を傾げた幸村に、佐助は、刺青、と言った。
「ね、きれい?」
 きれい、と聞く忍に、幸村は何の気なく頷いた。
「きれいだな」
 忍は、声もなく震えた。
「きれいな色だ」
 今思えば、あれが承認の合図だったのだ。忍は静かに喜んだ。幸村が、己の忍が何に感じて
いるのかもわからぬほど、深く、静かに。
「きれいだ」
 あとはもう、早かった。
 幼い頃からの傷を消すように、腕や脚に彫り物をした。一通り手足に彫るのに満足すると、
幸村も知らぬ間に胴や背に針を入れた。
 生身に針を入れるのは痛かろうと思うのに、血の滲む傷を増やしながら、佐助は何も言わな
かった。
「何のために入れる」
 もうやめろ、と幸村の言った時、佐助は首を傾げた。
「ーーなんで?」
 それから、憎くなった。
 忍の倣いなど知らぬ。ただこれは幸村の心など関わりなしに、忍同士で競い合っているだけ
ではないか。互いに痛みに耐えて肌を汚して、それで己の忠心を比べるなど、そんなこと命じ
た覚えはない。そのようなことをせねば幸村には己の心がわからぬとでも思っているのか。
 そうすれば己の信が得られるとでも。
「旦那あ」
 お願い、と忍が泣いた。
「何でもするから……! どうしたらおれのこと信じてくれるの……!」
 泣き声を作る喉が赤い。
 放っておけばこれは腹の中まで青く彫り上げるだろうか。
「どうすればだと?」
 青い体を突き放して、手を伸ばす。
「全て、消せ」
 腕も腹も胸も脚も全て。
「剥がすことは許さぬ。焼いてもならぬ」
 どうせできぬだろう、と震える忍をいたぶりながら、幸村は手を伸ばす。
 ここに刃を入れれば、この忍は死ぬ。
 絶望に声を上げる忍を撫ぜながら、ただ幸村には、首筋の青だけがいとおしい。




赤裸、
20080925
せきら:あかはだか
はだえのしたにあかあかと青


文章 目次