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 名前をつけるという習慣がないらしかった。
 そして佐助はたぶん名前を聞くという考えもなくて、いつも人のことを曖昧に呼んだ。
「旦那」
 人だけでなく、ものの名前は人よりもっと曖昧で、これおいしいねと小芋を食べてもぐもぐ
している。
「海老芋というらしいぞ」
「ふうん」
「うまいな」
「うん」
 どうせろくすっぽ覚えずに済ますのだろう。佐助は箸の先に重たそうに芋を刺したまま、赤
い椀越しに通りを見ている。後で聞けば、通った男の差料の柄の色まで答えるのだろうに、今
自分の食べたものの名はきっと永遠に出てこない。
「海老芋と、赤いのは金時人参と、大根の細いのは正月の雑煮にだけ使うやつだ」
「ふうん」
「名前は知らん」
「へえ」
 幸村の母は都の出だった。さほど偉くもない公卿の家のお姫様で、偉くはなかったけれども、
綺麗な着物をたくさん持っていた。それは今はまるきり姉の箪笥に引っ越して静かに眠ってい
る。幼い頃から嫁入り後、妻になり母になり、もっともっと年を取ってからの着物もたくさん
持っていた。それらは途中からぽつんと袖を通されることなく、しつけ糸のついたまま、虫干
しの時に庭に出されるだけだった。武骨な庭に、その時ばかりは花が咲いた。そうして、母の
着物は朝一番早くに開かれ、夕方一番遅くに仕舞われた。年に一度の花を、遠くの縁先から父
が見ているのを、幸村は知っていた。
「母が都の人だった」
 たれのような濃さの白味噌が、喉に絡む。
「知ってる」
 美人だったらしいね、と箸で餅を探しながら、佐助は答える。
「なんか小柄な人だったらしいじゃない」
 そんなことばかりよく知っている、と幸村は餅を噛んだ。よく伸びる。
「あんたも小っちゃいもんね」
「おれは並だ」
「あんた顔のせいで小っこく見えるんだよ」
 手許をよく見ていないからだ。ぽちゃ、と品のない音でにんじんが白味噌の雑煮に落ちた。
「……おまえもそんなにでかくないだろう」
「おれさま忍だもーん」
 佐助は幸村といる時は、自分が何を食べているのかほとんど気にしない。
「大っきくなったらちょんぎられちゃうじゃん」
「植木かおまえは」
 くっくっと喉を鳴らして、佐助は餅を呑み込んだ。
「お餅おいしいね」
「上田とは違うからな」
「なにが」
 ほんとうにどうでもいいらしい。佐助は底の見えない椀をぐるぐると箸で掻き回している。
「お豆腐どこ?」
「上方の雑煮にはない」
「あ、これお雑煮なの?」
「おまえなんだと思って食っていたんだ」
「なんか正月風の古くなったみそ汁」
「おいっ」
 悪びれもせずに言う忍に、思わず幸村は背後の店の様子をうかがった。
 まだ小正月も済まぬ小雪の時分に、無理を言って出してもらった椀だ。古くなったみそ汁な
どと暴言もはなはだしい。
「なんか粕汁っぽくない? 甘酒とかさ。もしかして腐ってる?」
「品のある味と言え」
 焼いた角餅にすまし汁の雑煮と違って、京への道すがらで食べる雑煮は、とろみのある白味
噌に、茹でた丸餅が入っていた。幸村には三箇日の終わり、身内で一度だけ食べる、母親の故
郷の味だった。
 ちらちらと雪の舞う中、佐助は白い息を吐いて道端を眺めた。
「……結構人通るね」
「天下の街道だからな」
 ふうん、と佐助は赤塗りの男椀を空にして、ぬくぬくと懐手にまるくなった。
「ごちそうさまー」
「うむ」
 掻き込むのも気がひけて、甘くなったにんじんを丁寧に噛む。
「そういえばおまえは食べたことがなかったか」
「んー?」
 幸村にもたれるふりをして、火鉢に近づこうとしている。手拭いを取った赤毛がふわふわと
触って、なんだかねこのようなにおいがした。
「おれさまお正月は忙しいもん。みんながおせち食べたりお年玉配ったりしてる間にせっせと
御領内のお仕事してんじゃん」
「後でねぎらってやる」
「ありがたいねえ」
 ふふんと鼻を鳴らして、佐助は目を閉じた。
「やべえ、腹があったけえ……」
「寝るな。じき都に入る」
「遠いじゃん。もう日が暮れるって。どっか宿取った方がいいんじゃない?」
「正月早々気合いが足りんのだ」
「おれさま年末から働きづめですって……」
 あー、と眉根をしわにしたまま、佐助は火鉢の縁を引き寄せた。
「着いたら夜は何が食べたい」
 最後の海老芋をかじりながら聞く。
「なんでもいいぞ。正月行事も一通り済んだだろうし、鶏でも魚でも」
「えー、無理じゃね。なんか京都のやつらとか一月中餅だけ食って生きてそうじゃん」
「そんなに搗くのも大変だろうから大丈夫だ」
「まあそりゃたしかにね……」
「お館様なら気合いで十升でも二十升でもすぐに搗き上げられるであろうが」
「そんなの糯米蒸すの足りねえよ……」
 空になった椀を床几の端に寄せて、幸村も薄雪を被る山並みを見上げた。
「鍋にでもしてもらうか」
 佐助は火鉢の炭を見ながらくすくすと鼻を鳴らしている。
「あー、いいねー……」
 寒中は馬仕立てで走る方が冷える。事によっては気付かぬうちに馬上でころりと死んでいた
りする。そう思えば、別に急ぐ用でもないので、たらたらと街道を来たのだが、もしかしたら
佐助はそろそろ冷えで弱っているのかもしれない。
 忍たちは夏の蒸す中は、虫にたかられながらでも耐えたが、雪が降り始めるところころと囲
炉裏端にまるくなって動かなくなり、積もってしまえば、それ幸いと用事の言いつけられるま
で日がな一日背中をあぶってうとうとしている。薄暗い雪の昼間、首の後ろを赤くした忍たち
が、ぬくぬくと耳を火照らせて眠っているのは少しおもしろかった。
「じゃあ、おれさまあれがいいな……、あのおうどん入れて食べるやつ」
「うどん?」
「おうどんじゃなかったっけ?」
「うどんか? 上田はそばばかりだからな」
「あー、違ったっけ」
 佐助は濡れた足先を動かして、難しいような顔をした。
「なんかあのさー、細長いやつ。寒天みたいなの。むにむにしてさ。あれなんだっけ」
「蜂の子か」
「違うよ、生き物じゃなくてさー」
「うどん?」
「いや、おうどんも食べたいんだけど……。あー、なんだっけ」
 一瞬、己が家の名を冠する虫のことが頭に浮かんだが、さすがに食う気にはなれなかった。
「旦那、前さ、軍神のとこでもらってきてくれたのなんだっけ? あのひもみたいなやつ。水
につけてさ、戻してたじゃん台所でさあ」
「……虫か」
「おしりから出るやつでしょそれ。やだよ、おれそれ絶対食わないからね」
「おれも食わん」
 軍神、鍋、と言われて思い出した。
「くずきりか」
 ああ、と簡単な謎が解けた。
「おまえあれは葛粉で作ったやつだ。くずきりだろう」
「あー、なんかそんな名前だったね。覚えてる覚えてる」
「うそをつけ」
 佐助はまるきりなんの心当たりもない顔で、いけしゃあしゃあと相槌を打った。
「おうどんみたいなやつ。それそれ」
「おれは雉が食いたい」
「どっかで取ってくれば」
「寒い」
 代金を受け取りに来た店主に文銭を渡して、幸村はちょっと雪空の具合を見た。
「……ご亭主、馬を二頭用立ててはくれぬか」
「どちらまで。先導はいりますか」
「いい。京だ。鞍が空けば向こうの馬喰に行って戻してもらう」
「しばしお待ちを」
 囲炉裏端に掛けてあった蓑笠を両手に提げて、佐助は往来に目を細めた。
「歩いてでも夜には着けるでしょ。馬で行くの?」
 うむ、と蓑の露を払う。
「急ぐ用もあるまい。なら馬の背に乗ってゆるゆる行けばぬくかろう」
「あ、なるほど」
 最後っ屁のようにしつこく囲炉裏に手を出していた佐助は、幸村を見てちょっとだけ困った
顔をした。
「おれそれ一緒に贅沢させてもらっていいの?」
 手綱引くよ、と忍にしては殊勝なことを言った。
「構わん」
 佐助は困ると眉がハの字になる。こけしのようだな、と思いながら幸村はぬくい部屋でその
眉をなでることを考えた。妙に頼りない、子供のような手触りなのだ。
「正月だ。年の初めに奮発するのも悪くない」
「ありがたいねえ。涙が出ちまうよ」
 佐助は肩をすくめた。
 このまま小雪が続けば、新年の都は薄化粧をして迎えてくれるかもしれない。なんだ、旅の
風情があるようじゃないかと幸村は笑った。
 都は綺麗だろう。門々に注連縄、門松、行き交う大路小路も晴れ着の女子供が賑やかだろう。
たまの上洛のついでだ、多少名所旧跡に張り込んだところで構うまい。楽しみは多い方がいい。
平安京とはよく言ったものだ。たまの旅人に見せる都の姿は美しい。
「晩飯が楽しみだな」
 脚絆の紐を締めると、身支度を終えた佐助が笠を差し掛けていた。
 この顔を何度も見た。頬の乾いたのも、髪の硬いのも、何度もこの手が知っている。
 ぐうっと笑いが込み上げた。
 いとおしい。
「今年もよろしく頼むぞ、佐助」
 不意を突かれたようにとんがった目がまるくなって一呼吸、幸村の忍は口許をゆるませて、
やわらかい顔で笑った。




透ける切片、
20120118
赤く透ける雪片
一生ついてくぜ、旦那


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