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 つつじの遅い春だった。
「雨降らないね」
 普段、雪だろうと嵐だろうと、どうでもいいという顔をしているくせに、今年は妙に空
の具合を気にした。
「それに寒いし」
 かしかしと爪を削る音がする。主の部屋の縁先で、佐助は小さなやすりで爪を磨いてい
る。
「ん」
 幸村は眠くて仕方がない。朝の間書き物ばかりして、飽きた。墨の匂いは幸村のまぶた
を重くする。
「だんなあ、どう思うー?」
 障子の陰に横になったまま、幸村は佐助の声を聞いていた。
「ねえってば」
 うとうとと返事をしないのに焦れたのだろう。佐助はねこのように体を伸ばして、障子
の裏を覗き込んだ。
「寝てんの?」
 研ぎたての爪が、投げ出したままの腕を触る。ねえねえと手だけ幸村に伸ばして、佐助
は幸村の手首をひっかいた。
「ねえ」
 木漏れ日が揺れる。剥き出しになった衿首の辺りを、明るいものがちらちらと行き来す
る。自分の寝息を聞きながら、幸村は少し笑った。佐助は幸村のことが好きなのだ。
 どうも自分は忍たちのお気に入りの主らしい。
 あちこちで顔を合わせる度に、忍たちは主のことを自分の手札のように自慢し合って遊
んでいる。
 自分の主は節句の度に甘いあんこがぎっしりのおまんじゅうをくれる。おれのところは
広い風呂に入れる。自分のところは屋敷の奥方様連中が何やかんやとうるさくて、なんだ
かちょっとくすぐったい。着物をあつらえてもらった、忍でも草履をはいてもいいらしい、
海を見た、たまごを食べた、髪の毛を切ってもらった。どうでもいいようなことを忍同士、
鳥のような声できゃっきゃと話している。近くで聞いていても何を言ってるのかわからな
い。どこからどこまで話で、どこからが笑い声なのかわからないのだ。それでも様子を見
ている限り楽しそうで、幸村はまあいいかと思う。
 それがふっと声が途切れて、姿が見えなくなった時が危ない。
 去年、忍が一人、主になぶり殺しにされた。何がどうとも知れなかったけれど、幸村に
すら、丸太にされたらしい、と噂で聞こえてきたのだから、きっと忍同士の間では仔細の
ことまでわかっていたのだろう。しばらくして西や東のあちこちで、どこそこの奥方が、
あちらの家の若者が、と、ふっといなくなっては思い出した頃に無惨な骸でみつかるとい
うことが続いた。
 世間は魔物か神隠しかと騒いだけれど、忍を飼う家は皆、なんとはなしに口を噤んだ。
 死んだ者は皆、その家の係累だった。どうやって調べ上げるのか、忍たちは遠縁、近縁
の区別なく、同じようにしていった。一人消え、二人消え、点のようにぽつぽつと消えて
ゆく理由など、知らぬ者にはわからない。ただ、知っている者だけが、次はあそこか、と
暗い目で哀れんだ。
 幸村は忍たちのお気に入りの主だ。
 自分の何がそんなにおもしろいのかわからないけれども、時折よその家の忍も、わざわ
ざ佐助たちについて幸村を見に来て、うれしそうにする。ひょっとしたら忍たちは幸村の
ことを自分の持ち物だと思っているのかもしれない。
 飼いねこの自慢でもするように、忍たちは自分の主の話をする。
「とらとら」
 ふんふんと鼻歌交じりで佐助の爪が幸村のてのひらを掻く。
「虎の子、虎の子」
 やわらかく緩んだ指で遊びながら、佐助もひとつ、あくびをした。




鳥の指、
20110709
いつか姿の変わるまで


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