山蟻が食ぶ。
 満足したと投げ出した指の先、縁を上って蟻が食う。
 湿った爪の食われる音を聞きながら、佐助は目を細める。主の右に寝る。
「旦那」
 教えておくのを忘れたな、と思う。
 主の首をなでる。背をなでる。肩に張った太い筋をさそって、佐助はもう、自分の爪はいい
やと思った。きっと虫には絡んだものさえ甘いのだろう。
 食えばいいやと、佐助は腕を投げ出したままに死んでいる。
「腕を」
 なくしてしまって、どうしよう、と冷えた闇を吸う。
 春、主は腕をなくしてしまった。
 花が怒濤のように咲いていて、ここは地獄か、と思った。ぞうぞうと音を立てて花が咲く。
青、黒、緑、もうその色を覚えていない。ただ、咲いていた。次々に尽きることなく咲いてい
て、もしやこの春は終わらぬではないかと、佐助は戦慄した。
「指が痛い」
 もうそちらの腕はない、と皆が言った。
「けれども、爪が剥がれかけたまま」
 なのに主が熱の中でそんなことを言うものだから、思わず佐助は自分の爪を剥がしてしまっ
た。たまたまだった。ほんとうに何の意図もない。なのに、不意に引っ掛けた帯の重みで、剥
がしてしまった。音もなく、感触だけ、耳に残った。
「旦那」
 済んでしまった、と主は端の畳で眠っている。
 幸村のなくしたのは左手だった。
「何だ」
 まだ握れる、と熱から覚めて、幸村はそう言った。
「あるではないかーーただ」
 繋がっておらぬだけで、と、佐助は幸村の首を絞めた。随分喚いて、主の顔を殴ったのは覚
えている。そのまま割合長い間穴込めにされてしまって、主の前に出た時には、剥がした爪も
薄く透明に生えていた。
「旦那、旦那」
 自分を馬鹿だと思った。
 ひたすら、主の前に食い物を運んだ。
 どうすればいいのかわからなくて、毎日姿も見ずに、やつでの葉に重ねて食い物を運んだ。
 見たくなかった。
 怖かったと泣いて詫びれば、今もうこんなことにはならなかったかと思う。
 山蟻が爪を食ぶ。
 主は左手をなくしてしまった。
 佐助は右手で主をなでながら、黙って爪を食わせている。


 痛いと言うな、と幸村は佐助をぶった。
 前のように掴んで捩じ伏せられないのが厭だ。ぶった程度でこれは堪えない。思う前に右手
で忍の口を掴んだ。小指が唇の中へぬめる。伸びた爪の先を舌がなぶった。それだけで癇に障
る。身の下で半ら裸の忍が叫ぶ。
「ーー痛い!」
 そればかりではないか、と開いた口を半分に食った。互い違いに舌が狂って、目の中が暗く
なる。口でするのがいいと幸村は覚えた。そればかり忍にもさせて、触れれば口を開けるよう
になった。覚えたではないか、と、妙に満足して幸村はそれに口付ける。
 次は目を開けろ、と片方の手を額に掛ける。


 気持ちいい、と、主にそう言わせるのは簡単だ。
 手ですると噛まれるので、佐助は口で主に触れる。主も佐助にそうするようになって、気が
付けば佐助は触れられるのに鈍くなった。腹だの肩だのあばらだの、触れられるのより、唇の
なぞるのがいい。
 主の目が体の上をたどる。それを濡らすように舌が追って、静かに噛む。
 互いに膝を立てて上に逃げる。それを押さえる手はない。追い上げられて、互いに死んだ。
 主の髪が頬を擦る。
 その音を、微塵に聞く。


 あれにとっては、刑罰のひとつだったのだろう。
「脚を切るぞ。腕を切るぞ」
 立てないようにしてやる。見えないようにしてやる。指は何本いる。いらぬのは何本だ。
 義理だの恩だの、そういうことはすぐに忘れるくせに、忍は責められながら聞いたことばか
り忘れずにいる。
 よほど怖かったのか、と体の傷をなぜる度に忍の顔を見る。
 これはたぶん、痛いのや怖いのを、少し体の中で取り違えている。触れる度に硬くなりなが
ら、ぬるい息を吐く。そうして順々に勘違いして、仕舞いにはそうだと思う。
「気持ちいい」
 口ではそう言わずとも、獣のように鼻で鳴く、その変わりようが好きだ。
 薄暗い、と肉体の記憶を見ながら、幸村は肌を触れる。
 頭脳の暗闇の中でばかり、繋がっていないだけの、なくした左の手を握る。


 立てるようになってしばらく、佐助はおかしなほど、幸村を隠したがった。
「いないよ」
 一度人の訪ねて来たのに、うそをついた。
「誰か来たのか」
「ううん」
 誰も来てないよ、と今度は露見しないようにうそをつくようになった。
「佐助」
 残った方の手で掴む。
「おまえ、忘れたか」
 前の時に腹立ち任せに打った痕を見せる。
「この傷も治らぬうちに、なぜ同じことをする」
 いやか、と言えばよかった。
「この幸村はいやか」
 問えばよかった。
「おまえもいやか」
 まだ時折左の爪が痛む。
 折り取られる寸前に、爪を剥がしたのだ。
 中指の爪。
 妙にゆっくりと指の肉と離れてゆく。それを横目で見ていた。そうして、すぐ生える、と思
ったのだ。だから気にもしなかった。ぶらりと根元だけ残った感触がした。それで一瞬だけた
めらった。このまま腿に擦りつけて剥がしてしまってもよい。
 けれどもそれは痛いだろうと、その時思った。
「まだ、両手がある」
 佐助の頭を抱えている。
 右の腕が忍の首を支えて、胸に抱えている。
 ほんとうは、左の指で、その頬をなでている。
「抱かれていて、いいか」
 段々に呼吸が平坦になって、佐助は眠る。うつうつと目をつぶって鼻先が擦りつく。目の前
にあるものに擦り寄る、それが生きているものの本能だと知っていても、幸村は気分がいい。
 首さえ支えていれば、佐助は眠る。
「佐助」
 自分の胸に息するものを抱えながら、幸村は左手を伸ばす。
 壁に触れているはずの指に、剥がれかけたままの爪が見える。
 夏の闇に赤い。


 もうすぐ夏が朽ちる。
 朝に夜に汗をかいた季節は終わる。
 腰から腿を汗つゆが流れる。濃くなったそれも、もうじき秋になれば乾いてしまう。
「戦に行く」
 幸村に、そう告げられなかった。
 たぶん、もう、一生そう告げられないような気がする。
 軋むように蟻が鳴く。
 その声で一晩の夏は果てた。
   




「蟻と爪、」

20080901
なくした腕は爪生えぬまま


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