ぶたれた顔から、血を流しても、佐助は声も上げなかった。
立ったまま、男の前で赤い血を流して見せた。
だから鉢金を着けていろと言ったのだ。
ばかめ、と幸村は舌打ちしたいような気になって、身を起こした。どちらも馬鹿だ。
「――なんだ、その目は!」
ぶつか、と思って見ていると、男は手に持った鞭を振り上げた。顔をぶった。――顔。
人に向かって使うものではない。騎乗で真田の陣幕まで来た用馬の鞭を、そのまま持っ
てきたのだろう。それを腹立ちに任せて振るったのだ。佐助の顔は裂けた。
「何を騒いでおられる」
明日は戦だ。もはや評定も定まった。
「――諏訪殿、またお申し入れでござるか」
暗がりに武者装束が光る。重たげな、と幸村は思う。
「真田ッ!」
いかにも真田でござる、とは答えなかった。知れてあること、それに、幸村は眠い。
「どうなされました」
男が、吼えた。何を言ったかは、あまり聞かなかった。どうせ幸村が聞かずとも、入用
になれば誰か耳打ちするだろう。今だって、辺りの闇溜まりには、ことごとく己の忍がい
る。そのうちのいくつかは、既に薄く殺気を放っていた。忍のは殺気は、薄ければ薄いほ
ど、よく切れる。
闇に、ふっと木の香のような辛味が混じる。佐助だ。この忍は、暗がりの中ではまるで
自分などいないかのように振舞う。ましてきらびやかな武者装束の相手と対称に、暗い渋
染めの衣装を着込んでいる。それが、ちらりと幸村を見た。血を流している。
随分深く打ってくれたものだ、と思う。
戦の前夜に、明日使う忍を。
幸村は男を見た。今にも名乗りを上げられそうな装束を着込んで、明日先陣切って戦を
しようという部隊に乗り込んでくる。もう夜だ。戦の前夜だ。明日には、幾人かが死ぬ。
「何でござる」
少し、苛立ちを感じている。幸村はそれを疲れのせいだと思った。戦の前だというのに、
僅か、倦んでいる。また少し苛立つ。
「何用で参られた」
男より幸村の方が若い。それでも、戦負けなどするはずがない。
「明日の先陣、観念してわれらに譲られよ」
またか、と思う。
夕方の評定でも、それはならぬと決まったではないか。戦はしたいやりたいではない。
「――諏訪殿は騎馬隊をお持ちであろう」
目の端で、かがり火が弾けた。幸村は、眠い、と思う。
「騎馬隊無論じゃ! この戦のために設えてみせた! それをわれらが先陣切って見せず
して何とする!」
騎馬隊。幸村は明日の戦場を思い描く。
「諏訪殿の騎馬隊は、確かに威容でござろう。しかし、明日は狭路から打って出ねばならぬ」
吹き寄せた風に、陣幕が音を立てる。
佐助が暗がりでぱちりと瞬きをした。まつげから小さな血の玉が飛ぶ。肉が割れたらし
い。あれでは血は止まっても、左の目は半分になる。腫れる、と幸村は思う。
「狭路狭路とそれほど喚き立てるほどのものではない!」
いっかな思った反応をせぬ相手に焦れたのか、男が声を上げた。
先陣よりも奥を守れと、何度諭された。騎馬隊騎馬隊と、出来立ての騎馬が大所帯で一
体全体どれほど動けると言うのだ。幸村は気付かれぬように目を細める。火が眩しい。
「われらは手柄を求めて言うのではない。明日の戦は向こうの士気も高いと聞く。それゆ
え少数の隊が死気でゆくよりも、われらの大隊が先陣切って敵の鼻っ柱を叩き折ってきて
やろうと言うのだ」
視界が狭くなる。まだわからぬか真田、と言う声を、遠くに聞いた。
狭路をわざわざ押し揉んで敵地へ出て、一体どれほどの速さで隊伍が組める。狭路を抜
け、そのままに打って出る。そのために既に忍を走らせてある。少数だからこそ先鋒の鋭
さがある。後手はその後ろで陣形を整え、押し包む。そして最後に出る本隊の威容が敗残
兵の抵抗を挫くのだ。
よい役ではないか、と誰もが思ったはずだ。だからこそ、評定は覆らなかった。
その冷静さに幸村は満足する。
武田の目は、遠く、広く、先まで見抜く。かつてその目が戦場で父の命を生きて留め、
今また幸村を手許に置く。
そこにある確かさを、幸村は信じている。
「何故答えぬ!」
男が動いた。
体では幸村の方が随分小さい。投げ飛ばしでもしようとしたか。幸村は黙って立ったま
ま、男の足が白い花を踏むのを見ていた。房のように連なる、あれは。
「――そこまで」
幸村は顔を上げた。
「佐助」
己が忍を呼ぶ。
忍は男の首に手を掛けていた。
わざとだ。利きの右手で顎の下のゆるいところへ指を入れている。男を殺すのなら、喉
仏を潰した方がいい。わかっていて苦しむだけのところを押さえている。その仕方では痕
も残らない。
男は、ぐっと喉を鳴らした。
そのままで殺すなら、押さえたまま吐かせて、息を詰まらせる。
「佐助」
男の首の裏で目が光る。顔の左側を血が伝う。右手で人の首を押さえたまま、忍は自分
の血を触った。傷ではなく、血の跡に沿って指を滑らせる。ぽつぽつと衿の汚れているの
が見えた。
馬鹿め、と幸村は笑った。
白々しい顔でいておきながら、その実、この忍もくやしいのだ。
――わかってやっているくせに。
幸村は押さえられたままの男は一瞥もしなかった。ただ、己の忍に命ずる。
「ひざまずけ」
少しだけ、これは何か不満のしぐさでもするだろうか、と思った。顔歪めるなり、して
みせるかもしれない。
けれども忍は、血を流した顔のまま、その場に跪き、顔を伏せた。
犬のようだ、と思った。下を向いて笑っている。
男は顔色を失って喘いでいた。
「戻られよ」
幸村は告げる。
「明日の先陣はわれら真田に決まってござる。この幸村はまだ若輩でござるゆえ、諏訪殿
はお気遣いにお見舞いくださった。それがしそう承知してござる」
火が揺れて、影も揺れる。
闇溜まりの目が瞬きをする度、犬猫の笑うような、僅かな気配がした。
「万一軍師殿にお策なく、諏訪殿の軍勢を先陣にお遣いあそばしてござれば、あの道には
行きも戻りもなりませぬ。後詰が来てござれば、狭路一筋の地形ゆえ、たとえ総崩れに遭
おうとも退くことはなりませぬ。諏訪殿も先陣を望まれる武勇の方でござる。それゆえそ
れがしにその危険、わざわざお教えくださったのでござるな」
夜が明るい。あちこちに火がともり、藪を黒く、白く照らす。
戦の前夜。
明日には、この夜闇に眠る、幾人かが死ぬ。
「明日は戦でござる」
最初の一陣、死に尽くしてもおかしくない。後詰が出るまで、真田のみで相手を押さえ
ねばならぬ。
ふと、この青年は、本心から自分のことを心配してくれていたのだろうか、と思った。
明日の戦、何人戻れるか、わからない。
「おまえはおれより、五つも下だ」
諏訪は呻いた。
「なぜじじい共はおまえばかりを先陣にやるのだ」
その声に滲んだ苦しみの意味を、幸村はぼんやりと感じた。戦の前に触れるべき種類の
思いではないと、わかっていた。疲れているのだ、自分は。
なのに幸村は、男の名を呼んだ。
「諏訪殿」
「何だ」
答えられると、慌てる。今日初めて幸村は戸惑った。
「――あの」
男は分厚い武者装束を着ていて、重たげに見えた。
「おまえ、また忘れておるな」
そして苦みばしった顔のまま、あほうめ、と唸る。
「虎の目は虎にしかないぞ、幸村」
佐助は土に跪いたまま、ぽつんぽつんと血を落としている。
「老人にはおまえが甲斐の大虎に取り入ろうとする山犬にしか見えんのだ」
知っております、という呟きが、息をつくような自然さで口を突いて出た。忍の気配が、
僅か乱れる。
「――はは」
男は、幸村よりも二回りも大きい。それが、何かいいものでも見たかのように笑った。
「そうか、知っているか」
男が近付く。今度は忍も動かなかった。
「明日は戦だ」
掴むように頭を撫でられて、幸村は思わず息を詰めた。
「崩れなどするものか」
おれが後ろにおる、と男は、子供にするようなしぐさで幸村の顔を覗き込む。
「な」
こくん、と頷いた。足下に白い花が見える。すっと流れるような白い花。
「虎の子は虎が育てるものだ」
この花の名を知っている。
「なあ、若子よ」
その名、おれがほしかった、と男が去ってゆくのを、幸村は頭を下げて見送った。
虎は血に厳しく、情に篤い。
「忍にすまぬと言っておけ!」
夜中の宿営に、大音声が響く。騎乗の音が藪を越え人を越えして遠ざかってゆく。火の
ような気配が消えた後、うわあ、と佐助が暗がりから立ち上がった。押さえたのか、血は
止めてある。
「四郎様だ」
忍にしては珍しい、呆然とした表情で呟く。
「――おう」
「なに旦那、おう、って」
「四郎様だ」
「うん」
ぽつぽつと藪の陰から忍の気配が消える。暗がりに紛れて散ってゆく。それを見送りな
がら、虎の目だって、と佐助が呟く。
「虎には虎がわかるそうですよ。うっかりおれ様殴っといてえらそうに」
「すまぬと言っていた」
「聞いたよそれさっき」
「おまえも無駄に殴られるな。どうせ腹いせに何か仕掛けるつもりだったのであろう」
まあね、と唇を歪める忍を、幸村はそばに寄せる。
「なになに」
戦が終われば精も根も尽きたように眠り込むくせに、戦の前はよくしゃべる。この忍も
自分も、まだ、幾日も戦ばかりを続けて生きるほどには、体ができていない。
それでも、戦をする。
人にもわかる手柄を立てる。
「六文銭は固く握っておけ」
まだ誰にも渡してはならぬ、と言うと、
「おれ様持ってないよ、そんなの」
と忍が笑った。
夜闇に白く垂れ下がる白い花。
かがり火が揺れて、明日また帰る者を照らす。
山虎の尾、
20070703
諏訪四郎勝頼
いつかの六月また光る