少し、ぞっとした。

「それがし、読めはしますが」

 書けませぬ、と真田幸村は言った。

「――は?」
 畳敷きの御座の間で、政宗は煙管を傾けたまま、顔を歪めた。もう霜が降りている。眠
る寸前の奥州に、赤い血の男が来た。
 虎の子だという。
「自分の名乗りくらいは書けますが」
 手の先で小さな火が燃える。細い煙が昇る。
 戦場で見た。いつも武田の軍勢の一番前にいる男だ。真田幸村。その名を叫ぶ声を聞い
たことがある。自分の傅役ですら、何か遠くに眩しいものを見るような目をしていた。
「――おまえ、武家だろ?」
「はい」
 吸い付けた煙を、珍しそうに見ている。淡々と首肯した。
「真田でござる」
 一枚開いた障子の向こうに、晩秋の庭が見える。霜が殺してゆく、眠る前の庭。床柱を
背にしたまま、政宗は幸村を見た。
「――それが何で字が書けねえんだよ」
 庭を背にして、幸村はきれいに座っている。
 武田の使者だと言ってこの男が領内に入って来た時、我知らず血は滾った。そのまま戦
を連れてくればいいと思って、政宗は笑った。知っている。あれは戦の子だ。あれの後に
は軍が続く。
 それが今、太刀も佩かずに座ったまま、冷めた顔で政宗の前にいる。
 ふっ、とその目が部屋の調度を見回した。政宗のために切られた花や、床の間の設えを
見、紙や書の伸べられた文机を見て、ちょっと目を細めた。

「一生戦をさせるなら、その方が使い勝手がよろしかろうと」

 まあ、もともと他に使い道の立つような生まれでもござらぬゆえ、と、幸村はそのまま
平伏し、雪の降る前に上杉と一戦する故奥州静観されたしの旨を口上して、辞去した。
 同盟か、と言うと、少し振り返って頷き、お結びくだされたく、と無表情に消えた。



 片手に煙を吸い上げる。足を組み直すと、新しく触れた畳が、ひやりと食い付いた。
(――一生)
 庶子だとは聞いていた。母は妾にも入れぬような女だと言う。産まれて、男だからとよ
やく真田の子に数えられた。そうでなければ、抱かれもせずに縊られていたような、身分
の軽い者だと言う。実母はじきに身罷り、次男として正妻の系列に加えられた。
 まあ――、疎まれたと聞く。
 あれの幼名が弁丸と言うのだ聞いた時、政宗は笑った。何がわきまえだと。どんな猛者
でも、傷付けば死ぬのだ。死ねば役には立たぬ。なのにあれは自身が死ぬことなど知らぬ
ように打ち進む。誰かがあれにおまえも死ぬのだと教えることがあるのなら、その刃は自
分が振るいたいと思った。
 灰入れに唾を吐く。
 弁丸とはよく付けたものだ。首筋を掻く。煙が苦い。部屋が冷えたと思った。
 手を打って女中を呼ぶ。炭を入れるように言って、座を立った。
 息が白い。



 宛がわれた部屋に入ると、障子に背を向け、ごろりと手枕に寝転んだ。
「――だんな」
 ぽつん、と小石のような気配がして、聞き慣れた声が幸村を呼んだ。
「佐助か」
 うん、と答える声の端が笑っている。
「どうだった、独眼竜」
 仰向きになって、幸村は天井を見る。いつの間に下りてきたのか、壁際に己の忍が立っ
ている。幸村は、そっちか、ところりと寝返りを打った。
「――何だか宝物がたくさんあった」
「宝物?」
「あちこちいろんなものが光っていた」
「へえ」
 口許まで覆っていた装束を下げて、佐助は薄暗い部屋の端で素顔を晒した。
「俺様盗んできてあげよっか」
「馬鹿を申すな」
「だってやり甲斐ありそうじゃない、竜の宝物」
「馬鹿者」
 笑ってやると、忍が畳に手をついて顔を寄せてきた。
「煙草の匂いがする」
 特別嗅ぐような仕草もないくせにわかるのか、いいやつだ、これ、と唇を尖らせた。
「どこで育ててんだろ、この匂い。四国のじゃないな」
 わかるのか、と聞けば、当たり前でしょ、と胸を張る。自分でも嗅いでみるが、幸村に
は匂いがついているのかもおぼつかない。
「ぜいたく!」
「奥州は金が出るからな。上田は出ぬ」
「金!」
 そりゃ戦もし放題だ、と佐助はまた毒づいた。
「金掘って米ためて、煙草だの漆だの金になるもんばっか作らせてさ」
 幸村は手のひらでざらりと畳を撫ぜた。到着してから、佐助は妙に機嫌が悪い。
 目をつぶる。
 つかれた、と思った。
「――旦那」
 忍の気配が、心配げにふくれる。その方へ手を伸ばし、幸村はまるくなる。
「まあ、よかろう。同盟が成れば」
 奥州の金など、つかってやればよいのだ、と言うと、忍は、物騒だなあ、と笑った。



 あれが忍を連れて来ているのは知っていた。
 供回りにいた細い男だ。徒歩のくせに一人だけ汚れ方が違う。小綺麗なままの足許も、
異様な赤さの髪も、わざと忍の印を見せているようなものだ。主人の足下に跪きながら、
近づいて来る者を窺っている。忍などその場にいるだけで討たれても仕方がない。しかし
あからさまに見せられては、こちらとて迂闊に手を出すわけにはいかない。
 けれども内心では、討ち掛かって来たって構わない、と思っているのに違いない。
 戦にするだけだ。

 狂犬か、と政宗は顔を歪めた。
 何が虎の子だ。
 真実そう思っているなら、こんな使い方はすまい。相応しい場が整うまで悠々と爪でも
研がせておけばいい。獲物までの道筋は雑兵が開ける。仔虎はそれを待てばいい。そうし
て誇らしげに咆哮を上げ、全軍の総覧の下で戦の誉を奪い取る。
 胸糞悪い。
 確かに、あれの後には軍が続く。
 戦が来る。
 今度とて、この若い犬が奥州の竜の匂いを覚えて帰ればしめたもの、とでも考えたのだ
ろう。足下に寄って行って、そのまま食い殺されるもよし、無事に戻れば、その匂いを頼
りにどこまでも竜を追わせるつもりだろう。
 どのみち、死ぬまで使われる。

 あれは、信玄の他に、味方がいない。



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泥より黄金光り、
20070623

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