奥州の暗がり。
佐助は、自分の足許で、主がとろとろと眠り始めるのを見ていた。
障子を立てた部屋の中は、静かで、暗い。閉じ込められたみたいだなあ、と佐助は思う。背中
からぼんやりした光が射し込んで、忍と主人の上に影を作る。
主人の横に、小さく小さくしゃがみ込む。息も細く、長く、深くなる。じっと主のそばに小さ
くなって、佐助は、主についた竜の気配を嗅いでいた。目の前を、ふらふらと影が揺れる。
戦忍の体は、あまり匂いがしない。切り裂けば鼻を突くような辛い匂いがするけれども、傷さ
え作らなければ、漏れ出すことはない。
背を向けて眠っている幸村を見ていた。耳の裏にできる影、伸び始めた襟足の髪。首の骨がや
わらかくしなっている。
冬が来る。奥州を沈めて、この霜は信州をも焼く。そして雪が吹き荒ぶ前に、幸村はまた戦に
ゆく。越後を殺しに一番前で槍を振るう。寒いだろう、と思う、その戦場で、佐助はきっと炎を
見る。狂ったように、その瞬間だけ燃える火を追いかける。
いつか、竜だって灼く。
そう信じてる。
その日まで、佐助もまた、小さな火。
父が死に、兄が本城を継いだ。母もそれに伴われて去り、上田には甲斐から城代が入ることに
なった。気が付けば、何故か、幸村だけ、居場所がなくなった。
小さい頃、屋敷の庭で、兄の後を追った。二人で柿の木の下で落ち葉を集めて遊んでいた。何
枚も何枚も、大きくてきれいなものを選んでは両手に持った。母上に差し上げよう、と兄が言う。
両手いっぱいに持った葉っぱがうれしくて、幸村はよろこんだ。兄の後をついて庭を渡り、もみ
じをくぐって母の居室へ行く。
母が好きだった。会えるのがうれしかった。なのに、幸村は自分を浅ましいと思いながらも、今
もあの時母の居室に上げてもらえなかったことを思い出す。自分ではなく、兄が泣いた。
最後の日も、母は幸村には一瞥もくれなかった。
地面が真っ白に見えるほど陽射しが強く、足下の影が黒く歪んで見えた。顔を上げ、遠ざかる
行列に、幸村はようやく、自分が母に愛されていないのを、思い知った。
それでも、母を愛している。そう思った瞬間、気が狂うかと思った。
新しく入った城代は、甲斐で父と親しくしていた男だった。
見覚えがある。
彼は平伏して迎えた幸村をしばらく眺め、字が書けぬというのは本当か、と聞いた。
「恥ずかしながら学ばずに参りました」
男はぺろりと指をなめると、眉の端に唾をつけた。
「読めはするのか」
頷くと、男は幸村の手を見た。
「槍だこばかりじゃな。筆は持ったことがないか」
とっさに拳を作って隠した。幸村は、自分で墨を磨ったこともない。
真っ赤になった子供を、男はおもしろそうに顔を歪め、昌幸めが、と唸った。男は座を立つと、
いいか、と幸村に耳打ちした。
「甲斐へ行け。昌幸の子だ。せいぜいお館様の拳に鍛えていただくがいい」
そうして男は、にやりと笑い、おまえが立派な若虎になった暁には、この城返してやるよ、と
唇を歪めた。
戦しかできないなら、それしかないものな、そんな者はお館様のお側で使っていただくしかあ
るまいしな、と男は妙にうれしそうに幸村の旅装を整え、むりやり酒を飲ませると、城から放り
出した。
「――甲斐」
ともかくまだ空の明るい方を目指して歩き始めると、いつの間にか横についていた佐助が、
「旦那、そっち西」
と、真新しい着物の袖を引っ張った。
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泥より黄金光り、
20070624