「――旦那」
ふっ、と佐助が人の形の気配を取り戻す。
どうした、と問えば、薄く開けたふすまの隙間から、忍の肩が見える。腰から下を畳につけたまま、
腕を支えに起き上がる。背の骨がやわらかくしなる。
「誰か来るよ」
廊下ではなく、床についた両手の間を見ている。床の心材を伝ってくる音を読んでいる。
「どなただ」
うん、と小さく頷いて、忍は、竜の右目、と言った。
「お一人か」
「うん」
幸村は旅装に改めた装束で首を傾げる。
「着替えた方がいいだろうか」
「さあ」
青い顔のまま、佐助は笑う。
「お手討ちだったりして」
「なら白装束を出せ」
「やだよ」
ふすまを開ける。
「なに」
忍は、自分の肩に隠れるようして目を細める。身なりの始末はしてあるが、中身はまだ熱く疲れた
ままだ。それでも息さえ整えば、忍はいつでも駆け出せる。
「たしかに片倉殿か」
「うん」
佐助の手が床を離れた。もうすぐ来るよ、と声を変える。高さのない忍の声。
「何かの時にいりそうな人のは全部覚えました」
ちょうえらいよね、おれ様働き者、かっこいい、お金ほしい、と同じ声のまま無駄口を叩く。
「おまえわざわざ忍口でそんなこと言うな」
幸村が足先で小突くと、忍は端の破れた唇のまま、いー、と歯を剥き出した。
戦場でしか見たことがなかった。
甲斐の虎。その仔は戦場にしか現れぬ。真田源二郎幸村と我が名を吼える若虎を、紅白の鬼火の
向こうに遠く見た。
戦振りは見事だった。小勢の軍を率いて陣を駆ける。右に左に打って切って、敵陣を獅子吼で切り
裂く。確かにこれは先陣取らせるに相応しい。
六文銭に赤備え。
小十郎は目を細める。
――武田に二虎ありと。
その声を誇りにした山虎は死んだ。
甲斐の赤虎は、失われた自身の片身を、まだ送ることができない。
手放すことができないのだ、と小十郎は思う。
まだ、まだ、と思うのに違いない。まだ、あれと共に行けた。まだ、あれと話せるはずだった。戦が
終われば飲ませてやると言った酒も、まだ。
まだ、――あれを失うはずではなかった。
失うはずではなかったのだ、まだ。
その思いが、子虎を絡め取って、離さない。
あの時、武田の戦を見詰めて、主はふつふつと血の色を変えた。
竜の血は滾る。あれがほしいと傲慢な体が笑う。
小十郎も戦場に猛る若虎を見る。
じき、獲っておしまいになれば、忘れるくせに。
けれどもたしかに、あれはいい。
そして、ふと思った。
もし小十郎が死ねば、政宗はその子を取るだろうかと。
「――失礼」
中の空気が、ぴりりと震える。その薄い熱を、小十郎は好ましく思った。
頬傷が疼く。
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泥より黄金光り、
20070704