朝、雨が降っていた。
雪が降らなくなってしばらく経ったけれども、雨は久し振りだと幸村は思う。
細く土を打つ音がする。
静かだ、と幸村は己の頭蓋に触れた。
「抜けたの」
春雨の降る中を来たものらしい。幸村の住処に、赤毛が覗く。
「佐助」
ここしばらく姿を見なかった。どこへ行っていた、とは聞かなかったけれども、幸村はその
足許から、どこか遠くの土を嗅ぐ。
「抜けたの、角」
外はぼんやりと明るい。まだ葉の繁らぬ木々は、濡れた枝を静かに光らせる。
「……昨日」
起き抜けのまま、まだ少し眠い。
「やっと片方残っていたのが落ちた」
「片方?」
髪に雨粒をつけたまま、するりと住処に入り込む。
「片っぽずつ取れたの?」
「左だけ先に取れて、三日ほどふらふらした」
「折っちゃえばよかったのに」
「怖いことを言うな」
幸村が顔を顰めると、佐助は濡れた髪のまま笑った。
「触ってもいい?」
手のひらが敷き詰めた木の葉を踏む。
一緒に冬を過ごすあなぐらは、さくらだのもみじだの、いい匂いのする葉ばかりを集めてあ
る。秋口に溺れるほどたくさん敷き詰めて、そこで冬を過ごす。いつの間にか少しずつ減って、
入り口から外の明かりが覗く。その頃には、もう春だ。
「奥でね、川が深くなってた。雪も消えてたよ」
額から髪を掻き分ける。うつぶせに閉じた目に、手のひらの影が映る。
「土もずいぶん解けてきてて、たぶんもう凍ってるところはないんじゃないかな。蛇の連中は
まだ眠ってるみたいだったけど、きっともうすぐ出てくるよ」
佐助の指は抜け落ちた角の痕を撫でる。まだ端のささくれた付け根に触れる。そのやさしく
するような感覚に、ぞくぞくした。
「……くすぐったい」
頭を振って起き上がる。
冬の間に随分髪が伸びた。始末せねば、と肩口で目を擦る。そう言えば腹も減ったし、喉も
乾いた。最近食ったのは、さくらの皮と椎の実だけだった。どちらも古くて渋かった。
「何か食ったか」
濡れた髪に頭を寄せる。
「うん」
髪の先を吸うと、雨に混じって、清水の匂いがした。
「水浴びもしてきたよ」
察したように佐助は言う。
「旦那もしてくれば。雨だし、誰もいないよ」
佐助はいつも雨の日に水場に行く。晴れてる日は蛇がいる、といつもいやそうに言うけれど
も、幸村は本当の理由を問い質したことはない。別段、言わせるようなことではない。
「おまえも抜けたのか」
うん、と奥のくぼみに横たわる。
「それ、食べてね」
佐助の指差した先で、福寿草の甘い黄色が濡れている。
幸村の角は去年ようやく四尖になった。
まだ一人前のように長くはならなかったけれども、枝分かれして伸びるのがうれしくて、し
きりと触れて確かめては佐助に叱られた。
「あんまりさわると歪んじゃうよ」
自分ではそう言うくせに、佐助は夜幸村が眠ると、こっそりその角に触れてくる。
枝を伝って、分かれ目に触れる。何をするでもない、ただ、確かめるようにまだやわい角に
触れて、口付ける。
佐助も気付いているのかもしれない。けれども、幸村はずっと知らぬ振りをした。
「いいなあ」
ふと、佐助がそう言ったことがある。
「旦那の角、いいなあ」
佐助の角は、いつまで経っても枝分かれしなかった。
皆、子供の一本角の時期を過ぎて、二尖、三尖と枝が増えて大きくなる。
けれども、佐助の角は二年経っても、三年経っても、子供時分のまま、枝分かれのない角が
すんなりと伸びているだけだった。
「いいなあ」
幸村が初めて佐助を見たのは、まだ自分にも角の生えていない頃だった。
「迷っていたのを拾った」
そう言って連れられて来たのは、変わった毛色の子だった。
ぼうっとして、痩せていた。
「いくつだ」
問われてもはっきりと答えぬまま、佐助はうやむやに群に混じった。
「少し、おかしいのではないか」
大人たちが噂し始めたのは、それからしばらく経って、夏になってからだった。
「角が生えない」
佐助は背格好からして、もう角が生えていてもおかしくなかった。幸村だってもう二、三年
もすれば最初の角が生える。
「おかしい」
なのに捕まえて体中改めても、他に特別変わったところはない。
ただ、角が生えなかった。
しらない、わかんない、と泣きじゃくる声を聞いた。
「やめてやめてやめて」
皆が遠巻きにした。
「はぐれたなんてうそだろう」
「どうせ同じように捨てられたんだ」
「それをお館さまがおやさしいのにつけ込んで」
いやらしい、と皆が遠巻きにした。
「誰が相手にするものか」
置いてきぼり、と角の生えぬまま、佐助はその夏を物陰に隠れるようにして過ごした。
秋口になり、信玄の回りを飛び跳ねて遊んでいた幸村は、時折、こちらを窺うようにする佐
助の姿を見るようになった。夏の間は姿を見せなかったのに、秋が深まるにつれて、遠くから
頻りとこちらを気にするような素振りを見せるようになった。
「お館さま」
どうしたのだろう、と告げると、信玄は鷹揚に頷いた。
「おぬしが呼んでやれ、幸村」
一目散に走り寄る。
「こちらへ来い!」
顔も見ずに手を掴んだ。
荒れた感触の手のひらは、やっぱり幸村よりも年かさの少年のもので、どうして角が生えな
いのだろうと、不思議に思った。
「甘いものは好きか」
信玄は佐助に何も聞かずに、敷物の上いっぱいに珍しい食べ物を並べた。
「かき!」
つやつやした実に、幸村は目を輝かせる。
「仕方がないな、ひとつずつやろう」
それ、と差し出された実に、佐助はなかなか口をつけなかった。
「うまいでござる!」
幸村がそう言って食べるのを見て、ようやく浅く歯を立てた。かし、かし、と手の中に隠す
ようにして実をかじる。伸びた前髪が顔に掛かって目許を隠す。
「これはどうだ」
食い終わる度に、信玄の手が糖蜜だのさる梨だのを差し出して食わせる。
どれだけ食うのだろう、と横で見ていた幸村は思った。佐助はものも言わずに、両手で山瓜
の実を掴んで食っている。
「おまえ、今までどこで飯を食っていたのだ」
ふと、聞いた。
どこでも見掛けなかった。水場でも姿を見たことがなかった。それなのに、いつも群の移動
する時には、一番後ろをぴったりと走る。
「なあ」
「幸村」
手許に呼ばれて、信玄のそばに寄る。
「また、明日も来い」
こくんと頷いて、佐助はまたどこかへ消えた。
「幸村、明日もまたあれを連れて来い」
な、とまだ角の生えない頭を撫でられて、幸村はほっと目を細めた。
次の日もまた次の日も、佐助は幸村に手を引かれて信玄の前に来た。
「それ」
こけももの赤い実が気に入りらしく、いくつもいくつも食べた。
「それが好きなのか?」
指先が汁に染まって赤くなっている。
「なっているところを教えてやれ」
信玄の手が小さな実をつまむ。
「わしも食いたい」
信玄が笑う、それに佐助が笑った。
「いっぱい、取ってきます」
ああ、案外に明るい顔をしているものだと思った。
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春の角、
20080405