前の戦で油を被った。
肩の皮膚が融けた。装束に擦れて肉が破れる。だから石垣から転げ落ちた時、もう終い、と
思った。なのに、その背を踏みつけられた。魂切れるような声を聞いて、それが自分だと思っ
た時には、引き剥がされた装束を目の前に見た。
赤い。
怖くて自分の体は見られなかった。
吸い込む息が白くなり、佐助は死んだ。
それで、生き返ったら真っ暗だった。
体が腐っていた。傷から吹き出す脂が背を伝い、爛れた肌に虫を呼ぶ。昼の熱に羽音が混じ
る。夜の暗さに、肌を食う気配を聞いた。
「痛い」
水を求める声に、灰の混じった薬を飲まされた。
「背中痛い」
皮膚が濡れる。中から薄い血が滲むのが痛くて、上が乾けば中が熱く膿み、怖くて怖くて掻
きむしった。爪に腐った脂が染みる。
体に触れるところが全部黒くなった。
「ーー肩が痛い」
言う度に薬を飲まされる。
「水」
お願い、と見知らぬ足に乞うた。
「お水が飲みたい」
腫れた舌が乾く。
「お水」
窓もない小屋に寝かされたまま、佐助は夏の底で苦しんだ。
心臓が薄くなっているのがわかる。
声もなく藻掻く度、足の先の鎖が鳴った。
逃げられない、と小さくなって、伸びた爪で肩を抉った。
ひどい臭いに、うつむいたまま吐いた。
それ、と躾でもするように佐助の目の前で飯の器を持ち上げる。
「昨日言った順は覚えたか」
男は意味のない物や言葉の羅列を覚えさせては、佐助の頭の具合を確かめている。
「字は書けるか」
問われた時に、首を振った。
「ふうん」
それきり男は何も聞かなかった。代わりに毎日やってきては、鳥でも仕込むような熱心さで
延々と長い文句を覚えさせた。
「それ」
つかえずに言えれば飯を食わせる。
自然、男の気配で腹が減るようになった。喉を反らせて水を飲む。最初は米粉を溶いただけ
の水だった。それに割麦が浮き、大豆が沈みするようになって、ようやく粟飯の粥がもらえた。
くっくっと喉を飯が通るのがわかる。
「太ったか」
測るように手首を掴む。
「並程度にはなるかな」
ごくんと飯を飲んで、佐助は瞬きをした。
「おまえ人に仕えたことはあるか」
首を振る。
伸びた髪が歪んだ肌を擦った。
背中一面醜く波打っていた。
自分で触れてぞっとした。つるりとまるで魚の皮のような感触で、前とは全然違う。何か別
のものを張り付けられたような気がした。
「ふうん」
気持ち悪い、と黙った佐助の横で、男だけ納得したように、ふうんと一声唸ってあさっての
方へ指笛を吹いた。
それ、と突き出された先に、子供がいた。
「まあ、そこそこ洗っておきましたので」
それだけ言うと、男は、しからばだの、ごめんだの言ってあっさりと消えた。
「おまえが佐助か!」
子供が縁側から降りてやってくる。
「猿に似ていると聞いていたがそうでもないな!」
「え」
取り残されて、動揺した。
「けれども髪の毛はめずらしい」
触ってくる、と直感した。いやだ、と逃げようとして、驚いたことに佐助は転けた。あんま
りころりときれいに転けたもので、一瞬何が起きたのかわからなかった。
「おお」
つかまえた、と子供の手が耳の上の髪を掴んだ。
「いたい!」
まるい爪が思い切り頭を引っ掻く。そのまま引っ張られて、佐助は声を上げた。
「抜きたい」
何を言うのかと耳を疑った。
「房にしてやる」
そう言って本気で力を込める。
「痛い!」
思わず振り解こうとした。
「なにすんのバカ!」
瞬間、熱を感じた。
「ーーおまえ」
子供の唇が言った。
「忍の分際で」
次にはもうぶたれていた。
「おまえはおれが飼ってやったのだ」
なあ、と自分をぶった拳が名を呼んだ。
「ーー佐助」
案外、年が近いのかもしれない。
そう思う間に静かに懐剣の鞘を払う音がして、主は物を見る目で佐助の髪に刃を入れた。
もし、自分が犬なら、きっとあの場で尾っぽを切り落とされていたと思う。
鳥なら羽根を毟られていただろうし、蛇なら鱗を剥がれていたに違いない。猫なら鳴けと言
われて喉を潰されていただろうし、虫ならきっと手足をもがれていた。
「もういい」
怖くて声も出せなかった。
「おまえなどつまらぬ」
房にしたいと言っていた髪を無茶苦茶に切り落として、主は佐助を突き飛ばした。
「いらぬ」
右の耳を、血が伝った。
じいんと重い音がする。目玉が少年の持った刀を追った。霞のような匂の刃文。地肌に細か
く赤が散っている。自分の血か、と思った。粒のようにまるく綴れて散っている。
そういえば、と思った。
たぶん今、自分の血を、初めて見た。
痛い。
今更のように思った。
耳の上、髪の中を切られた。思わず顔を庇った。その腕に刃が触れた。それだけで線のよう
に肌が切れた。生の血が垂れる。
たぶん今初めて見た。
傷付けられた瞬間の自分の血。
膿混じりの黄色い血でなく、汚れて乾いた黒い血でなく、初めて見た。
赤い血。
妙に胸が震えた。
「ーーきたない」
血の付いた刃を見もせずに袴で拭う。手の中に握った佐助の髪を見て言った。
「いらぬ、こんなもの」
土の上に捨てられる。
「いらん」
さっきまで佐助の髪を掴んでいた。
その手を拭う。
「いらん」
二遍目は、佐助に言われた。
「おまえなどいらん!」
怒っている。その顔を見ながら、佐助は黙って瞬きをした。
「ーーいらぬと言っている!」
横面をぶたれた。
「消えよ!」
その声で、ぞっとするほどゆっくりと、目の前の色が変わった。
「呪ってやる」
そう思った瞬間、土を掛けられた。
それだけだった。
主の首を掴む。手のひらに喉仏が触った。顔が歪む。ごつ、と軽い手応えで頭蓋が土に当た
る。割れない。そう思ったのだけ覚えている。ぎゅうっとつむったまぶたが、怖いものを見る
目で開く。その顔に、爪を立てた。
色鮮やかに赤が滲んで、その傷は、随分長く主の顔に残った。
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日照りの沼、
20080817