兄のような忍がほしかった。
兄は、いつか三河へ行くからと、随分幼い頃から徳川に貰った忍を一人持っていた。
「兄上」
いい忍だとすぐにわかった。
背の高い、姿のきれいな忍で、とてもいい声をしていた。膳の浚え方も字の書き方も、とて
もよかった。忍のうちでも特にいい者を寄越したのだろうと皆で言い合った。
「弁丸」
兄はいろんなものを持っていた。それはたとえば特別の硯であったり、とても古い墨であっ
たり、彼のために拵えた刀だったりした。
「兄上」
幸村には何も届かなかった。
馬も、お菓子も、小さな弁当箱も、兄に特別のものが届いて初めて、幸村は自分の持ってい
るものが少しだけ兄に劣るのを知る。
そう言えばな、と幸村は思った。
そう言えば、自分は父の正統の子ではなかった。
兄も姉も、確かに父の妻の子で、母親譲りの美しい黒髪を持っていた。きりっと上がった眉
の形がそっくりで、皆で居並ぶととても収まりがいい。
幸村はいつもそこへ紛れて、少しほっとする。
似ていないわけではない。
同じ父の子、兄とも、姉とも、幸村はきちんと似ている。
けれども、並べてみればわかる。
幸村は生みの母に似た。
「忍が欲しい」
気が付けば、幸村のお願いは、いつも上手くはぐらかされて消えていた。
段々にわかる。自分は兄と同じものはもらえない。皆、一番は兄を、そうしてそれから少し
劣るものを幸村に渡す。
「ほら、幸村様にも」
それは、もう、いい。それはもういい。
けれどもどうしても、忍だけ、兄と同じものが欲しかった。
「信幸様」
客人の前に忍を呼び寄せる。
「これが私の自慢なのです」
あの瞬間、兄と忍の間の空気。
「それはよいものを、お持ちですな」
誰にだってわかる。
兄はいいものを持っている。
幸村だって、欲しかった。
兄のように、ひとつだけ、一番いいもの。皆がほめてくれるような、皆に自慢できるような、
自分も、ひとつだけ、いいものが欲しかった。
だから、ねだった。
「忍が欲しい」
随分長くねだって、ようやく返事がもらえた。
「そうですね、幸村様のためにいいのを見繕って来ましょう」
うれしかった。
素直にうれしかった。
「ありがとう」
だから、あんな屑が来るとは思わなかった。
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日照りの沼、
20080818