誘うように伸ばされた手。
 それが白でないのを、幸村は知っている。
「来ないの?」
 しないの、と暗がりに浮かび上がる、男を幸村は呼ぶ。
「来い」
 外は雪。



 橋の上にも雪が積もっていた、と朝から忍が白い息を吐いた。
「寒いね」
 そう言うくせに、手では釣瓶の綱を持っていて、甕に移す度に、くみ上げた水を足許にこぼ
す。これが井戸端に触るようになってから、石の井筒に苔が増えたと厨の者が怒っていた。
「顔洗う?」
 裸足の足で雪を踏む。
 これも人らしく、雪の上に五つ揃った指は赤かった。けれども、それで痛いということもな
いらしい。
「ぞうりを履け」
「ええ」
 首に回した手拭いを外す。垂れた髪を跳ね上げると、忍がからからと釣瓶を上げた。
「おまえ毎年そうしてばかなことをするから、しもやけだ何だのと大騒ぎするはめになるので
はないか。ぞうりを履け」
「えー」
 主の説教にも、忍は曖昧なしぐさで新しい雪を踏んだ。
「ぞうりが寒ければ雪駄でも買え。そのくらいの金はあるのだろう」
 濡れた綱を握る手もまた、赤い。
「……ないのか」
 縁石に置かれた桶が跳ねる。水がこぼれた。
「……いいじゃん別に」
 じっと見合った。
「おまえは」
 そう言えば羽織った半纏にも綿が入っていない。
「おまえ綿を売ったな!」
「か、貸しただけ貸しただけ」
「一体いつ返ってくるのだ。夏か? 春か? 次の冬か? 明日返してもらえ」
「む、むり……」
「ならおまえ冬中綿なしで暮らす気か」
「炭焚くもん」
「炭が買えるなら雪駄を買え、ばかもの」
「あっ、馬鹿って言った馬鹿って。ひでー。旦那ひでー。おれさま馬鹿くねー」
「ばか。真冬にそんななりをしてかしこいわけがあるか」
 身震いする。
「冷えるな」
 前髪を押さえる。手を差し入れた水は清く、爪の奥に染み込む。
「冷えるな」
 もう一遍言って顔を上げた。
「ん」
 差し出された手拭いを取る。
 紺の刺し子にちらりと金糸が混じる。どこでこしらえてもらったものか、まったくこんなも
のにばかり金を遣って、とわざと乱暴に顔を拭いてやった。



 佐助は火が好きだ。
 火の色がいい。
 忍は大抵火を恐れるように躾けられるけれども、佐助は好きだった。子供時分に触れようと
して、何遍も火傷をした。少しくらいならいいだろうと、手に掴もうとした。
 今でも右の手のひらに痕がある。
 ここが赤々と腫れ上がって、皮のめくれていたのを覚えている。水のような、油のような、
たらたらと黄色いものが流れ出て、痛いのと痒いのでじっとしていられなかった。触るな、水
に浸けていよ、と言われたのに、佐助は何を思ったのか、もう一度火に翳した。
 見事に焼けた。
「馬鹿」
 痛い痛いときゃんきゃんと泣く、馬鹿だ馬鹿だと皆が呆れた。
 まともに帯も締められないのを、もうよいと囲炉裏端に放り出された。
「炭でも眺めておれ」
 馬鹿、と言われて、一冬それで過ごした。
 あんまり飯ももらえずに、灰を被って暮らしたけれども、割合幸せだった。
 火が好きだ。
 火の色がいい。
 月でも太陽でもなく、火が好きだった。
 ほうっと息を詰める。
 うずくまった暗がりに、何があるとも知れぬ行き先に、ほっと小さく火は灯る。
 震えるほど、佐助はそれが好きだった。
「決まったぞ」
 だから、真田に行かせてやると言われた時は、うれしかった。
 火の子がいる。
 木の燃える色。松、杉、ひのき、しらかし、桂、ばらの木、榎、石榴、みかんの木。鉱石、
金属、土、塩、毒の色。火を見るのが好きだった。戦場には火がある。火が絶えない。灰、埋
み火、りん、野火。皮履のまま戦場を踏んで、じわりと熾火が染みる。
 死んでしまいたかった。
 ここに埋もれて死んでしまいたい。
 血泥に固まったこの体なら、きっと長く燃える。静かに燃える。
 そんな望みの叶わないことを知りながら、戻る道辺に思った。
 死ぬなら火になりたい。
 佐助の血からは、じくじくと闇ばかり湧く。



 昼になる前、腹が減ったな、と厨へ行けば、かまどの横に忍がいた。
「あ」
「こら」
 勝手に餅を焼いている。
 串に刺した切り餅をくりくりと回しながら、器用に焦げ目をつけている。
「うまそうではないか」
 隣に屈むと、忍は本当にいやそうな顔をした。
「三つしかないよ」
「ふうん」
 ではいくつ寄越すのだ、と小突けば、しぶしぶといった風にひとつ差し出す。
「あといっこ半分こにしない?」
 自分もひとつくわえて、残ったひとつを名残惜しそうに出す。
「しかたないな」
 言って、半分かじってやると、残りをさっと引っ込める。
「うまいな」
「うまいけど」
 ちぇっとあからさまに舌打ちする。
「おれさまが焼いてたのに」
「食ってもらってうれしいくらい言えぬのか」
「うれしくないもん」
「うそでも喜べ」
「やだ。旦那取った。ひどい」
「それも寄越せ」
「おれのお餅!」
「うるさい」
 忍がしつこく泣きまねをするのを無視しながら、しばらく並んで餅を食っていた。
 ぱちぱちと榾木が燃える。うっすらと揺れるその火に、佐助が指先で触れる。ふわふわと火
を撫ぜるようなしぐさに、こいつは熱くないのかと眉をひそめた。
「ね」
 一瞬、その指に火が移ったのではないかと思った。
 青く暗い色。
「ね」
 みどりのようだ、と餅を呑み込む、見つめた指は何の変わりもなく、幸村は瞬きをした。
「今」
 ふっと佐助が睫毛を落とした。
 くちびるにくちびるが重なる。
「ーー」
 音もなく首筋が逆立つ。
「う」
 離れた後も、幸村は目を見開いたまま固まっていた。
「ごめん」
 忍はぱちぱちと瞬きをして、唇を拭った。
「もうしない」
 そう言って触れた指の熱さに、幸村は黙って身震いした。



 そのまま佐助は二日も姿を見せなかった。
 三日目、雪を踏んで出た井戸端に赤毛が屈んでいた。
「ごめん」
 はい、と藪柑子の実を差し出す。
「あげる」
 ごめん、と繰り返す。
「あげる」
「ーーおまえは三言以上しゃべれんのか」
「しゃべれますけどお」
「語尾を伸ばすな」
 手拭いではたく。そこだけ殊勝に幸村の罰を受けた。
「いたあい」
 庭石の上に尻を下ろして、相変わらず裸足でいる。
「綿はまだ返って来ぬのか」
 釣瓶をくみ上げる間に聞いてやる。
「うんじゃあ旦那が買ってよ。綿買ってよ。新しいやつ」
 雪を踏む踵が赤い。
「誰が買うか」
 水を汲む手の中で笑う。
「ええー、おれさま死んじゃう」
「だからそれなら雪駄を買えと」
 うん、と忍が顔を近づけた。
「もっかい」
 ちゅ、と音をさせて、濡れたくちびるを吸った。



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ばさらの火、

20090205


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